フョードル・ドミートリエヴィチ・プロンスキイ
Федор Дмитрьевич Пронский
公 князь
生:?
没:1537
父:ドミートリイ・アンドレーエヴィチ・プロンスキイ公 (アンドレイ・イヴァーノヴィチ・プロンスキイ公)
母:?
結婚:?
子:
名 | 生没年 | 分領 | 結婚相手 | 生没年 | その親・肩書き | |
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母親不詳 | ||||||
コンスタンティーン |
第22世代。スヴャトスラーヴィチ(ムーロム系)。モスクワ大公の勤務公。
当初は南方防衛に当たっていたが、1514年、スモレンスク陥落後にオールシャでリトアニア軍と戦う。モスクワ軍は大敗を喫し、弟イヴァン・ドミートリエヴィチはリトアニアの捕虜となった。
スタロドゥーブ(1517)、メシチェラー(1519)の総督を歴任。
1536年、幼君イヴァン雷帝の母后エレーナ・グリンスカヤと叔父スターリツァ公アンドレイ・イヴァーノヴィチとの対立が表面化。フョードル・ドミートリエヴィチはアンドレイ・イヴァーノヴィチのボヤーリンとしてモスクワに派遣される。しかし行き着かないうちにエレーナ・グリンスカヤがスターリツァに軍を派遣。アンドレイ・イヴァーノヴィチは一旦ノーヴゴロドに逃亡するが、騙されて捕虜となる。フョードル・ドミートリエヴィチ以下そのボヤーリンたちは処刑された。