ユーリイ・ヴァシーリエヴィチ
Юрий Васильевич
ドミートロフ公 князь Дмитровский (1462-73)
生:1441.01/11.22
没:1473.09.12 (享年32)
父:モスクワ大公ヴァシーリイ2世盲目公 (モスクワ大公ヴァシーリイ1世・ドミートリエヴィチ)
母:マリーヤ (マロヤロスラーヴェツ公ヤロスラーフ・ヴラディーミロヴィチ)
結婚:なし
子:なし
第18世代。モノマーシチ(モスクワ系)。ヴァシーリイ2世の三男。ただし長男ユーリイがユーリイ・ヴァシーリエヴィチの誕生した年に死んでいたので、事実上次男。長男にちなんでユーリイと名づけられた。
1446年に父がモスクワ大公位を追われた際には、兄イヴァン・ヴァシーリエヴィチとともにムーロムに避難する。しかしドミートリイ・シェミャーカに捕らえられ、モスクワに連行され、ウーグリチに監禁された。
その後、あるいは父が目をつぶされたためか、まだ若いうちから兄イヴァン・ヴァシーリエヴィチとともに父の下で活躍。1454年、兄イヴァン・ヴァシーリエヴィチとともにオカー河流域に派遣され、タタール軍と戦う。1460年には父に従いノーヴゴロドへ。さらにプスコーフに代官として派遣され、リガ大司教と停戦を交渉したりもしている。
1462年、父が死去。その遺言により、ドミートロフ、モジャイスク、セールプホフを相続した。
1469年、イヴァン3世により、アンドレイ・ゴリャーイ、ヴァシーリイ・ミハイロヴィチとともにカザンに派遣される。ハーンのイブラヒムを屈服させた。
1471年、兄のノーヴゴロド遠征に従軍。
1472年、リトアニア大公カジミエラスと結んだキプチャク・ハーンのアフマトがモスクワへの侵攻を企てるが、これを迎撃するためオカー河畔に出陣した。結局アフマト軍は撤退。
分領の経営に問題があるとして、イヴァン3世に分領をすべて没収された。とする文献があるが、おそらくは普通に死んだ。ただし、子がなかったために兄イヴァン3世と弟たちに遺領を分与するよう遺言したが、結局イヴァン3世がすべてを手にしている。
クレムリンのアルハンゲリスキイ大聖堂に埋葬されている。