リューリク家人名録

ヴラディーミル・アンドレーエヴィチ

Владимир Андреевич

スターリツァ公 князь Старицкий (1536-66)
ドミートロフ公ズヴェニーゴロド公 князь Дмитровский и Звенигородский (1566-69)

生:1533・35
没:1569.12 or 01.06−モスクワ

父:スターリツァ公アンドレイ・イヴァーノヴィチモスクワ大公イヴァン3世大帝
母:エヴフロシーニヤ (アンドレイ・フョードロヴィチ・ホヴァンスキイ公

結婚①:1551
  & エヴドキーヤ -1597? (アレクサンドル・ミハイロヴィチ・ナゴーイ)

結婚②:1555
  & エヴドキーヤ公女 -1569 (ロマーン・イヴァーノヴィチ・オドーエフスキイ公

子:

生没年分領結婚相手生没年その親・肩書き
エヴドキーヤ・アレクサンドロヴナと
1ヴァシーリイ1552-73
2エヴフィーミヤ1553-71
エヴドキーヤ・ロマーノヴナと
3マリーヤ-1569
4マリーヤ1560-97リヴォニア王マグヌス
5エヴドキーヤ1561-70
6ユーリイ1563-69
7タティヤーナ-1564
8アナスタシーヤ-1568
9イヴァン1569

第20世代。モノマーシチ(モスクワ系)。

 1533年に伯父のモスクワ大公ヴァシーリイ3世が死に、従兄弟イヴァン4世雷帝が即位。実権を握った未亡人エレーナ・グリンスカヤは、ヴラディーミルの父アンドレイを逮捕(1537年に獄死)。母エヴフロシーニヤとヴラディーミルは自宅軟禁の状態に置かれ、分領は没収された(これにより、モスクワ系の分領は消滅した)。
 1538年にエレーナ・グリンスカヤが死ぬと、1540年、モスクワ府主教ヨアサーフの働きで、母とともに釈放され、父の屋敷を取り戻す。1541年のクリスマスには分領スターリツァも付随するボヤーリンたちも返還され、分領公として復活した。

 1549年頃には、ヴラディーミルは従兄弟のイヴァン雷帝と親しくなった。1552年には、イヴァン雷帝とともにカザン遠征に。

 1553年、イヴァン雷帝が重態に陥る。余命幾許もないと覚悟したイヴァン雷帝は、幼い長男ドミートリイ(1歳)を後継者にするよう遺言する。しかし幼帝を戴くことで、20年前のような血で血を洗う内紛が再現されることを怖れたボヤーリンや聖職者たちは、イヴァン雷帝の最近親の成人であるヴラディーミル・アンドレーエヴィチを後継者に擬する。
 ヴラディーミル・アンドレーエヴィチと母エヴフロシーニヤ・アンドレーエヴナもその気になり、ヴラディーミル・アンドレーエヴィチはイヴァン雷帝に要求されたドミートリイ・ツァレーヴィチに対する忠誠の誓いを拒否した。このときヴラディーミル・アンドレーエヴィチは、ドミートリイ・ツァレーヴィチに忠誠を誓うよう要求したヴラディーミル・ヴォロトィンスキイ公に対して、「Ты б со мной не бранился и не указывал и против меня не говорил.」と言って脅した。それどころか雷帝直々の要求をも拒絶し、イヴァン雷帝はヴラディーミル・アンドレーエヴィチに対して「Знаешь сам, что станется с твоей душой, если не хочешь креста целовать; мне до того дела нет.」と言ったとか。ヴラディーミル・アンドレーエヴィチは自身のボヤーリンたちを招集し、かれらに忠誠を誓わせ、さらには反対派に対抗するため軍を呼び寄せる。
 しかしイヴァン雷帝は奇蹟的に快復し、ヴラディーミル・アンドレーエヴィチの即位話はなくなった。この時のボヤーリンや聖職者たちの対応がイヴァン雷帝のかれらに対する不信感を助長し、のちのオプリーチニナ体制につながったとされる。
 特にヴラディーミル・アンドレーエヴィチについて言えば、これがイヴァン雷帝との関係を悪化させ、のちにイヴァン雷帝がヴラディーミル・アンドレーエヴィチを殺す遠因ともなった。
 ただしこのよく知られたエピソードには実は根拠がなく、ゆえにイヴァン雷帝によるヴラディーミル・アンドレーエヴィチ殺しを正当化するための作り話だったとする説もある。

 事実、ヴラディーミル・アンドレーエヴィチはその後もイヴァン雷帝から信任され、各地に軍司令官として派遣されている。1554年には、生まれたばかりの跡取りイヴァン・ツァレーヴィチ(ドミートリイ・ツァレーヴィチは1歳で死んだ)が即位した場合の摂政に指定された。
 1555年にはトゥーラに、1556年にはセールプホフに、イヴァン雷帝とともに出陣している。

 いかなる理由からか、1556年、イヴァン雷帝の要請により、分領のうちヴェレヤー、アレクシン、スターリツァを、ドミートロフ、ボーロフスク、ズヴェニーゴロドと交換した(なお、これは1566年のことだとする歴史書もある。どちらが正しいのか、よくわからない)。

 1557年にはセールプホフへ、58年にはカルーガへ、62年にはセールプホフへと、連年のように南方に派遣される。また1562年にはモジャイスクに派遣され、翌年にかけてポーロツク攻略に従事した。

 1563年、ポーロツクから帰還したヴラディーミル・アンドレーエヴィチを待っていたのは、突然の失寵だった。
 ヴラディーミル・アンドレーエヴィチは母エヴフロシーニヤ・アンドレーエヴナとともにロマーノフ(ヴォルガ河畔)に送られ、分領は没収。母は修道院に入れられる。

 しかし早くも1564年には赦されたらしく、ペレヤスラーヴリ=ザレスキイにイヴァン雷帝のお伴をしている。その後しばらく、不安定な状態が続いたが、1566年にもトゥーラに南方防衛に派遣されている。

 1569年、アーストラハン防衛に派遣されたが、すぐにイヴァン雷帝に召還される。モスクワに帰還したヴラディーミル・アンドレーエヴィチを待っていたのは、またしても失寵だった。
 ヴラディーミル・アンドレーエヴィチと家族はイヴァン暗殺を企んだとして毒をあおることを余儀なくされた。にもかかわらず、イヴァン雷帝によりアルハンゲリスキイ大聖堂に埋葬された。

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