ミハイール・アンドレーエヴィチ
Михаил Андреевич
ヴェレヤー公・ベロオーゼロ公 князь Верейский и Белозерский (1432-86)
生:?
没:1486
父:モジャイスク公アンドレイ・ドミートリエヴィチ (モスクワ大公ドミートリイ・ドンスコーイ)
母:アグリッピナ (スタロドゥーブ公アレクサンドル・ミハイロヴィチ)
結婚:
& エレーナ公女 (マロヤロスラーヴェツ公ヤロスラーフ・ヴラディーミロヴィチ)
子:
名 | 生没年 | 分領 | 結婚相手 | 生没年 | その親・肩書き | |
---|---|---|---|---|---|---|
母親不詳 | ||||||
1 | ヴァシーリイ | ヴェレヤー | ||||
2 | アナスタシーヤ | オーシプ・アンドレーエヴィチ | ドロゴブージュ公 |
第17世代。モノマーシチ(モスクワ系)。
生年は不明。両親の結婚は1403年とされており、父の死んだ1432年までのいずれかの時期にミハイール・アンドレーエヴィチは生まれた。
妻の姉(? 妹?)マリーヤ・ヤロスラーヴナが1418年の生まれとされていることからすると、妻エレーナ・ヤロスラーヴナの生年はその前後と考えられる。とすると、ミハイール・アンドレーエヴィチの生年は1403年から1420年頃までの間と想像してみてもいいかもしれない。
1432年、父が死去。遺領は兄と分け合い、イヴァン・アンドレーエヴィチがモジャイスクを、ミハイール・アンドレーエヴィチがベロオーゼロとヴェレヤーを相続した。
1433年の伯父ユーリイ・ドミートリエヴィチの叛乱に際しては、兄イヴァン・アンドレーエヴィチ同様に伯父をモスクワ大公として承認する。その死後は、ヴァシーリイ・コソーイをモスクワ大公として認めた。しかしヴァシーリイ・コソーイはすぐに没落。ミハイール・アンドレーエヴィチもヴァシーリイ2世を大公と認めた。
1445年には、ヴァシーリイ2世とともにウル=ムハンマドと戦い、ヴァシーリイ2世とともにその捕虜となる。釈放されたのも一緒。
この間に兄と同盟を結んでいたドミートリイ・シェミャーカが、かれらの帰国直後にクーデタを起こし、モスクワ大公位を奪った。しかしミハイール・アンドレーエヴィチは、この時は兄とは異なり、ドミートリイ・シェミャーカの大公位を認めず、ヴァシーリイ2世への忠誠を貫いた。
その忠誠が認められたのか、1450年にはヴィーシュゴロドを分領としてもらう。もっともその後没収された。
内紛において、ミハイール・アンドレーエヴィチと同じくヴァシーリイ2世に忠誠を貫いたヴァシーリイ・ヤロスラーヴィチ(義兄でもある)は1456年に突然失寵。追放され、分領は没収された。結局モスクワ系の分領公でヴァシーリイ2世の治世を分領公として生き延びたのはミハイール・アンドレーエヴィチだけだった。
1463年にイヴァン3世が即位すると、その中央集権化政策はミハイール・アンドレーエヴィチも圧迫するようになる。
1465年、分領の一部をイヴァン3世に割譲。
1482年には、自分の死後ベロオーゼロをモスクワ大公に遺贈することを約束。
1483年、息子のヴァシーリイ・ミハイロヴィチとイヴァン3世との間に悶着が生じる(イヴァン3世の最初の妻マリーヤ・トヴェルスカーヤがヴァシーリイ・ミハイロヴィチに贈ったものをイヴァン3世が取り返そうとした)。ヴァシーリイ・ミハイロヴィチはリトアニアに逃亡。ミハイール・アンドレーエヴィチはこの不始末の責任を取らされ、ヴェレヤーを没収された。
その後ヴェレヤーは返還されるものの、子孫(つまりヴァシーリイ・ミハイロヴィチ)に相続させることは禁じられた。
ミハイール・アンドレーエヴィチの死でベロオーゼロもヴェレヤーも没収され、モスクワ系の分領公はイヴァン3世の弟たちだけとなった。