イヴァン・イヴァーノヴィチ
Иван Иванович
ツァレーヴィチ царевич
生:1554.03.28
没:1582.11.19/11.29 (享年28)
父:ツァーリ・イヴァン4世雷帝 (モスクワ大公ヴァシーリイ3世・イヴァーノヴィチ)
母:アナスタシーヤ (ロマーン・ユーリエヴィチ・ザハーリイン)
結婚①:1571
& エヴドキーヤ -1619? (ボグダン・ユーリエヴィチ・サブーロフ)
結婚②:1574
& フェオドーシヤ -1621 (ミハイール・ティモフェーエヴィチ・ソローヴィイ)
結婚③:1581
& エレーナ (イヴァン・ヴァシーリエヴィチ・シェレメーテフ)
子:なし
第21世代。モノマーシチ(モスクワ系)。イヴァン雷帝の第四子(次男)。とはいえ、兄ドミートリイが誕生の前年に夭折していたため、イヴァン・イヴァーノヴィチは生まれながらに事実上の長男であった。
1571年に結婚した最初の妃エヴドキーヤ・サブーロヴァは、父の花嫁コンテスト(マルファ・ソバーキナが選ばれる)の余りで、宮廷貴族の娘(祖父ヴァシーリイ3世の最初の妃ソロモーニヤの姪)。
エヴドキーヤ・サブーロヴァは早くも翌1572年に修道院に入れられた(修道名アレクサンドラ)。伯母ソロモーニヤ同様、世継ぎを生まなかったことが原因と言われる。しかしそれにしては、結婚の翌年というのはいくら何でも早すぎる。サブーロフ家は、当時宮中で台頭してきていたボリース・ゴドゥノーフと縁続きであり、あるいはボリース・ゴドゥノーフに反発する勢力による陰謀という要素があったのかもしれない。少なくともイヴァン・イヴァーノヴィチ自身はエヴドキーヤを愛しており、彼女と別れることを嘆き悲しんだと言われる。
1574年、20歳になったイヴァン・イヴァーノヴィチは、フェオドーシヤ・ソローヴァヤと再婚。彼女も妊娠の兆候が見られず、1579年に修道院に入れられた(修道名パラスケーヴァ)。
1581年、エレーナ・シェレメーテヴァと3度目の結婚。同時代史料によれば、花嫁コンテストでエレーナを選んだのは父イヴァン雷帝であったとされるが、研究者の中にはイヴァン・イヴァーノヴィチ自身が彼女を選んだとする者もある(当時シェレメーテフはイヴァン雷帝の不興をこうむっていたのがその根拠らしい)。
1582年、エレーナ・シェレメーテヴァは妊娠する。これはイヴァン・イヴァーノヴィチにとっても初めての経験であった。あるいはそのため、イヴァン・イヴァーノヴィチも精神的に不安定になっていたのかもしれない。父と口論し、殺されてしまった。
ポッセヴィーノの伝えるところによると、11月13日、エレーナ・シェレメーテヴァが自室に肌着だけでいたところ、突然イヴァン雷帝が訪れた。自室内とはいえ肌着だけの嫁を見たイヴァン雷帝は激昂し、エレーナをぶった。その結果、11月14日、エレーナ・シェレメーテヴァは流産した。これに怒ったイヴァン・イヴァーノヴィチがイヴァン雷帝を非難すると(「父上はわたしの最初の妻をこれといった理由もなく修道院に押し込め、ふたり目の妻にも同じことをし、そしていまは3人目の妻を殴打する。お腹に抱える息子を殺すために」)、逆上したイヴァン雷帝に杖で頭を殴られた。この時の傷がもとで、5日後にこの世を去ったという。
アントーニオ・ポッセヴィーノ(1533-1611)はイタリア人イエズス会士。ポーランド=リトアニアとモスクワとのリヴォニア戦争を仲介するため、またあわよくばモスクワをカトリック化するために、教皇特使として1582年にモスクワを訪れる。前者には成功、後者には失敗し、その後もワルシャワにとどまったものの、1586年にはイタリアに帰国した。当時のモスクワについて貴重な証言を残している。
ちなみに、イヴァン・イヴァーノヴィチの死後、エレーナ・シェレメーテヴァは修道女となった(修道名レオニーダ)。自発的なものであったとはいえ、前のふたりと同じく修道女として後半生を送ることとなった。