リューリク家人名録

イヴァン4世・ヴァシーリエヴィチ «グローズヌィイ»

Иван Васильевич "Грозный"

モスクワ大公 великий князь Московский (1533-84)
ツァーリ царь всея Руси (1547-75、76-84)

生:1530.08.25−コローメンスコエ(現モスクワ)
没:1584.03.18/03.28 (享年53)−モスクワ

父:モスクワ大公ヴァシーリイ3世・イヴァーノヴィチモスクワ大公イヴァン3世大帝
母:エレーナ (ヴァシーリイ・リヴォーヴィチ・グリンスキイ)

結婚①:1547−モスクワ
  & アナスタシーヤ -1560 (ロマーン・ユーリエヴィチ・ザハーリイン

結婚②:1561−モスクワ
  & クチェナ/マリーヤ -1569 (チェルケス公テムリュク・イダロヴィチ)

結婚③:1571−アレクサンドロヴァ・スロボダー
  & マルファ -1571 (ヴァシーリイ・ソバーキン)

結婚④:1572−モスクワ
  & アンナ・コルトフスカヤ -1626 (アレクセイ? イヴァン?)

結婚⑤:1573
  & マリーヤ・ドルゴルーカヤ公女 -1573

結婚⑥:1575
  & アンナ・ヴァシーリチコヴァ (グリゴーリイ・アンドレーエヴィチ・ヴァシーリチコフ?)

結婚⑦:
  & ヴァシリーサ・メレンティエヴァ

結婚⑧:1580
  & マリーヤ -1612 (フョードル・フョードロヴィチ・ナゴーイ)

子:

生没年分領結婚相手生没年その親・肩書き
アナスタシーヤ・ロマーノヴナと
1アンナ1549-50
2マリーヤ1551-
3ドミートリイ1552-53
4イヴァン1554-82エヴドキーヤ-1619ボグダン・ユーリエヴィチ・サブーロフ
プラスコーヴィヤ-1621ミハイール・ティモフェーエヴィチ・ソローヴィイ
エレーナイヴァン・ヴァシーリエヴィチ・シェレメーテフ
5エヴドキーヤ1556-58
6フョードル1557-98イリーナ-1603フョードル・イヴァーノヴィチ・ゴドゥノーフ
マリーヤ・テムリューコヴナと
7ヴァシーリイ1563
マリーヤ・フョードロヴナと
8ドミートリイ1583-91ウーグリチ

第20世代。モノマーシチ(モスクワ系)。ヴァシーリイ3世の長子(長男)。

 1533年、父の死で、僅か3歳で即位。
 父の遺言でドミートリイ・ベリスキイ公が後見人に任じられる。もっとも、後見人に任じられたのはヴァシーリイ・ネモーイ=シュイスキイ公だとする説、«摂政会議» が設けられたとする説などもある。この点はっきりしない。いずれにせよ、実権は母后エレーナ・グリンスカヤが掌握した。

 エレーナ・グリンスカヤは、イヴァン・オフチーナ=テレプニョーフ=オボレーンスキイ公を重用。これに反発した伯父ミハイール・グリンスキイを1534年に投獄する(かれはその後獄死)。
 あるいはイヴァン・ヴァシーリエヴィチの地位を脅かす存在と思ったのか、エレーナ・グリンスカヤはさらにイヴァンの叔父ドミートロフ公ユーリイ・イヴァーノヴィチを投獄する(のち獄死)。

 エレーナ・グリンスカヤはポーランド=リトアニア王ジグムント2世老王に、1522年の講和条約の更新を申し出る(すでに1526年、1532年と2度にわたって更新され、両国間には平和が続いていた)。しかしこれを、リトアニア議会が一蹴。1508年の国境への回帰(すなわちスモレンスクの返還)を求め、最後通牒を送ってきた。エレーナ・グリンスカヤとしてもこのような要求を呑むことなどできるはずもなく、こうして1534年、リトアニアとの戦争が勃発した。
 リトアニア軍は、スモレンスクとセーヴェルスカヤ・ゼムリャーに侵攻したが、いずれの都市も陥とすことができなかった。
 1535年にはモスクワ軍がムスティスラーヴリとヴィテブスクを攻略するが、こちらも陥とすことができず。一方、モスクワ軍はリトアニア本土に侵攻してこれを蹂躙したが、リトアニア軍もゴーメリとスタロドゥーブを陥とした。

 イヴァン・ヴァシーリエヴィチがモスクワ大公となった時点で、タタール最大の勢力はクリム・ハーン国であった。サーヒブ=ギレイは親オスマン政策を採り、その甥サファー=ギレイはモスクワに位を追われた前カザン・ハーンであった。
 そのカザンでは、ヴァシーリイ3世が擁立したジャーン=アリーの下で親モスクワ派と親クリミア派との対立が続いていた。その兄シャー=アリーはベロオーゼロに追放されていた。
 1535年、カザンにてクーデタが起こり、ジャーン=アリーが追放された(おそらく追放先で殺された)。サファー=ギレイが復位し、カザンとクリムとが手を結んでモスクワと対立する構図が復活した。
 おそらくこれを受けてのことだろう。エレーナ・グリンスカヤはシャー=アリーを釈放し、カシーモフ・ハーンに復位させた。

 1535年、貨幣改革を実施する。この時に誕生した貨幣が、コペイカと呼ばれるようになる。

 1536年、エレーナ・グリンスカヤと、イヴァンの叔父スターリツァ公アンドレイ・イヴァーノヴィチとの対立が表面化。アンドレイ・イヴァーノヴィチはモスクワを離れてスターリツァに反エレーナ派を結集する。両者間の緊張が高まったが、アンドレイ・イヴァーノヴィチイヴァン・オフチーナ=テレプニョーフ=オボレーンスキイ公の説得に応じてモスクワに出頭した。しかしエレーナ・グリンスカヤはこれを捕らえて投獄。

 1537年、ジグムント老王と講和。ゴーメリをリトアニアに割譲したものの、損失はそれだけにとどめた。なおこの年、エレーナ・グリンスカヤはスウェーデンとも条約を結んでいる。

 1538年、エレーナ・グリンスカヤが死去。これにより政権がガラッと変わった。
 権力を握ったのはヴァシーリイ・ネモーイ=シュイスキイ公。かれはイヴァン・オフチーナ=テレプニョーフ=オボレーンスキイ公を追放し、さらに権力闘争のライバルとなったイヴァン・ベリスキイ公ドミートリイ・ベリスキイ公の弟)を投獄する。しかし自身はすぐに死去。
 続いて、その弟イヴァン・シュイスキイ公が権力を握った。イヴァン・シュイスキイ公は1539年には府主教ダニイールを追放し、ヨアサーフを後任としている。しかしかれの権力掌握は完全ではなく、大貴族間の権力争いが続いた。
 1540年には府主教ヨアサーフの主張により、イヴァン・ベリスキイ公が釈放され、やがてイヴァン・シュイスキイ公を追って実権を掌握。
 しかし1542年、イヴァン・シュイスキイ公が返り咲き、イヴァン・ベリスキイ公と府主教ヨアサーフをベロオーゼロに追放した。しかしその直後、イヴァン・シュイスキイ公も死去。アンドレイ・シュイスキイ公が権力を握るが、一旦は逼塞していたグリンスキイ一族から、母后の兄弟ユーリイ & ミハイール・グリンスキイが徐々に台頭し、アンドレイ・シュイスキイ公の権力を脅かした。
 こうしてシュイスキイ一族とベリスキイ一族、さらにグリンスキイ一族も加わって大貴族たちが権力闘争を繰り広げている中、フョードル・ヴォロンツォーフがイヴァン・ヴァシーリエヴィチの個人的な寵愛を受けるようになる。1543年、イヴァン・ヴァシーリエヴィチの眼前で、アンドレイ・シュイスキイ公がフョードル・ヴォロンツォーフを殴打した。これにイヴァン・ヴァシーリエヴィチが怒り、この怒りを煽ったユーリイ・グリンスキイの示唆で、3ヶ月後になってアンドレイ・シュイスキイ公を処刑させた。これによりシュイスキイ一族が没落。
 イヴァン・ヴァシーリエヴィチの実の叔父としてグリンスキイ兄弟が宮廷を牛耳れば、イヴァン・ヴァシーリエヴィチの寵臣としてフョードル・ヴォロンツォーフが大公権の行使を事実上操るという状態が生まれたが、裏では両者間の権力闘争が続いていた。1545年、フョードル・ヴォロンツォーフが宮廷から追放される。一旦は呼び戻されるものの、1546年には処刑された。

イヴァン・ヴァシーリエヴィチ成人までの実権者を図式化すると、以下のようになろうか。
 1533-38 : エレーナ・グリンスカヤイヴァン・オフチーナ=テレプニョーフ=オボレーンスキイ公
 1538 : ヴァシーリイ・ネモーイ=シュイスキイ公
 1538-40 : イヴァン・シュイスキイ公
 1540-42 : イヴァン・ベリスキイ公
 1542 : イヴァン・シュイスキイ公
 1542-43 : アンドレイ・シュイスキイ公
 1543-45 : ユーリイ & ミハイール・グリンスキイ、フョードル・ヴォロンツォーフ
 1545-47 : ユーリイ & ミハイール・グリンスキイ

 1546年、モスクワ軍がカザン・ハーン国に侵攻し、サファー=ギレイを追ってシャー=アリーを復位させる。しかしモスクワ軍の撤退とともにサファー=ギレイが復帰。再びシャー=アリーは追われた。

 1547年、成人に達したとして、イヴァン・ヴァシーリエヴィチはウスペンスキイ大聖堂にてツァーリとして戴冠。祖父も父もツァーリを名乗ってはいたものの、ツァーリとして戴冠してはいない(そもそも戴冠式そのものを行っていない)。ゆえに、一般的にイヴァン・ヴァシーリエヴィチが初代のツァーリとして扱われる。
 ルーシ/ロシアにおいて、戴冠式は1498年以来2度目。戴冠式という儀式は、明らかに祖母ソフィヤ・パレオローグを通じてビザンティン帝国からもたらされたものだろう。イヴァン・ヴァシーリエヴィチがツァーリとして戴冠式を挙げたことで、以後、戴冠式という儀式が定着する。
 なおツァーリとして戴冠したとはいえ、この新たな称号は諸外国からは簡単には受け入れられなかった。ツァーリという言葉は語源的にはラテン語のカエサル、すなわちローマ皇帝に由来する。皇帝と教皇とがこの世界の世俗的および宗教的な頂点に立つという中世西欧の世界観では、神聖ローマ皇帝以外の皇帝などあり得ない。宗教改革によってこの世界観からいち早く脱したイギリスなどは即座にツァーリの称号を認めたが、ローマ教皇や隣国ポーランド=リトアニアなどは長く新称号を無視し続けた。ちなみに当の神聖ローマ皇帝は、比較的早くツァーリの称号を認めている(すでに皇帝マクシミリアン1世が、政略的観点からヴァシーリイ3世のツァーリの称号を認めている)。
 戴冠式の直後、アナスタシーヤ・ロマーノヴナと結婚した。

 キエフ・ルーシの昔から、ロシアの建築物は木造であった。このため火事には弱かったが、1547年の春から夏にかけて、特にモスクワで火事が頻発した。やがて、頻発する火事はグリンスキイ家、中でもユーリイ & ミハイール兄弟の母アンナ・ヤークシチの悪行のせいだとする噂が広まった。言うまでもなく反グリンスキイ派による陰謀だが、グリンスキイ兄弟が悪名高かったためにそれがすんなりモスクワ市民に受け入れられることになった。イヴァン・ヴァシーリエヴィチが火事を避けて近郊に避難している隙をついて、モスクワ市民が蜂起。ユーリイ・グリンスキイを殺し、グリンスキイ家の屋敷を焼き討ちした。ミハイール・グリンスキイはアンナ・ヤークシチとともに逃亡して難を逃れたものの、権力の座から追われることになった。
 グリンスキイ兄弟の失脚によって生じた権力の空白を埋めたのが、シリヴェストル、アダーシェフ、そして府主教マカーリイであった。かれらイヴァン・ヴァシーリエヴィチの個人的な側近たちは、こんにち «イーズブランナヤ・ラーダ» と呼ばれている。

«イーズブランナヤ・ラーダ Избранная рада» は「選抜者会議」などとも訳されるが、公的な機関ではない。この名もアンドレイ・クールブスキイ公命名で、ほかの同時代史料には登場しない。ゆえに、これが非公式の名称だったのか、そもそも名称などは存在せずアンドレイ・クールブスキイ公がそう呼んだだけなのかは不明。アンドレイ・クールブスキイ公によれば、シリヴェストルの影響下に、1549年までにイヴァン・ヴァシーリエヴィチの周囲に集まってきた人々であるが、それが具体的に誰かも学者により意見が異なる。誰もが一致するのはシリヴェストルとアダーシェフ、府主教マカーリイ、ヴィスコヴァートィイ、クールブスキイ公などであろう。ただし当時存在した «ブリージュニャヤ・ドゥーマ» (「側近者会議」といった意味)との混同もあり、そもそもこのような側近グループは非公式のものであるから、正式なメンバーなどありはしないので、確定は不可能である(当然時期による異動もあろう)。

イーズブランナヤ・ラーダのメンバーとして名が挙げられるのは、以下の面々。
 マカーリイ(-1563)はモスクワ府主教(1542-)。ヨアサーフの後任としてイヴァン・シュイスキイ公に擁立されたが、ヨアサーフ同様にシュイスキイ一族に反発。ユーリイ・グリンスキイとともに1543年のシュイスキイ一族没落をもたらす。イーズブランナヤ・ラーダの中では、1547年以前からイヴァン・ヴァシーリエヴィチに大きな影響力を持っていた唯一の人物。イヴァン・ヴァシーリエヴィチの治世にモスクワ府主教は8人いるが、うち、その死まで府主教座を保持できたのは、マカーリイ(1542-63)、キリール(1568-72)、アントーニイ(1572-81)だけである。
 シリヴェストル(-1566)も聖職者で、府主教マカーリイに近い存在だった。クレムリン内のブラゴヴェシチェンスキイ大聖堂に勤めていたこともあり、イヴァン・ヴァシーリエヴィチの知己を得る。1547年のモスクワ大火・蜂起の中でその信任を得て、側近中の側近となった。しかしスターリツァ公ヴラディーミル・アンドレーエヴィチと親しかったことから、1553年以降徐々に影響力は低下。クリム・ハーン国攻略を主張してリヴォニア戦争に反対。1560年、ソロフキー諸島へ、次いでベロオーゼロに追放された。一般に『ドモストローイ』の著者とされる。
 アレクセイ・フョードロヴィチ・アダーシェフ(-1561)は(おそらく)下級貴族の出。ミハイール・グリンスキイ死後にシリヴェストルとともにイヴァン・ヴァシーリエヴィチの側近として活躍。イーズブランナヤ・ラーダの政策を主導した。シリヴェストルへのイヴァン・ヴァシーリエヴィチの信任が薄れるにつれてアダーシェフも影響力を失っていき、1560年、自ら宮廷を離れてリヴォニア戦争の前線に赴いた。病死。
 イヴァン・ミハイロヴィチ・ヴィスコヴァートィイ(-1570)は勤務貴族。ポソーリスキイ・プリカーズ長官(外務大臣)(1549-70)。しかし外交だけではなく、イヴァン・ヴァシーリエヴィチの側近として内政や宮廷でも影響力を持った。1553年にはシリヴェストルやアダーシェフがスターリツァ公ヴラディーミル・アンドレーエヴィチに接近したのに対して、ヴィスコヴァートィイはドミートリイ・ツァレーヴィチの擁立を推進したため、イヴァン・ヴァシーリエヴィチの信任も篤くなった。それでもオプリーチニナ体制の下でイヴァン・ヴァシーリエヴィチの猜疑心の犠牲になり、処刑されている。
 イヴァン・フョードロヴィチ・ムスティスラーフスキイ公(-1586)はゲディミノヴィチ。1548年にボヤーリン。
 ドミートリイ・イヴァーノヴィチ・クルリャーテフ=オボレーンスキイ公(-1562)はトルーサ系リューリコヴィチ(第20世代)。1549年にボヤーリン。
 ヴォロトィンスク公ヴラディーミル・イヴァーノヴィチ(-1553)はグルーホフ系リューリコヴィチ(第20世代)。1550年にボヤーリン。
 イヴァン・ヴァシーリエヴィチ・シェレメーテフ(-1577)。1550年にボヤーリン。
 アンドレイ・ミハイロヴィチ・クールブスキイ公(-1583)はヤロスラーヴリ系リューリコヴィチ(第22世代)。自らを含むイヴァン・ヴァシーリエヴィチ側近グループをイーズブランナヤ・ラーダと名付けた張本人であるから、必ずイーズブランナヤ・ラーダの一員に数えられるが、ボヤーリンとなったのは遅く1556年。おそらくイーズブランナヤ・ラーダの中では新参者だったのだろう。

 1547年、2度目のカザン遠征。しかしカザンを陥とすことはできず、サファー=ギレイを追うこともできずに、1548年に帰還した。
 サファー=ギレイは1549年に死去。子のウテミシュ=ギレイが跡を継ぐ。ウテミシュ=ギレイはまだ2歳であり、«摂政» にはノガイ出身の母后スユムビケがなったが、実権は父に仕えていたクリミア・タタールが握った。
 これを受けてイヴァン・ヴァシーリエヴィチは再度カザン遠征。とはいえカザンを陥とすこともウテミシュ=ギレイを追うこともできず、1550年にはモスクワに帰還した。

 1549年、聖職者に加え、中央の大貴族たち、さらには地方の諸階層(おそらく農民の代表も含めて)をクレムリンに召集。«和解会議» を開催した。これがのちに、第1回の «全国会議 земский собор» と呼ばれることになる。ボヤールスカヤ・ドゥーマ(貴族会議)やブリージュニャヤ・ドゥーマ(側近会議)など、公や大公周辺の実力者たちの機関は存在しても、代議制の機関はこれが最初(一種の議会、フランスの三部会に相当すると考えることもできよう)。
 第1回全国会議はたった2日だけの開催であり、その意義は実質的なものよりも象徴的なものであったと言っていい。しかしここで、イーズブランナヤ・ラーダが実施しようとしていた改革への協力が呼びかけられた。
 イーズブランナヤ・ラーダの改革は多岐にわたる。ひとつには徴収された税の一部を地方の代官に扶持として与える制度を廃止。土地の貴族や都市民、農民をも含めた一種の代議機関を設置し、司法を中心とした地方自治に参画させることにした。さらにこれらの改革の成果を一部反映させて、1497年の法典に次ぐ新たな法典を編纂。
 1551年に聖職者と俗人とから成る会議を招集(第2回の全国会議に数えられることもある)。正教会の所有する土地に関する問題を中心に、種々の決議を採択した。この決議は «ストグラーフ» と呼ばれ、ゆえにこの会議も «ストグラーフ会議» と呼ばれる(ちなみに府主教マカーリイは、当然ながら、教会領の改革に反対した)。
 これに加えて、軍制の改革も推進した。銃兵部隊が創設されたのもこの頃である。1556年には勤務法典も制定し、これにより旧来の封建的な軍制に替えて、集権的な常備軍を創設。また軍務に対する封土の給付も法制化した。
 軍事行動上差し障りの大きかった門地制度についても、『君主の系譜書』を中心とした諸家の家系図を国家が整備し、これをコントロールしようとした。

ロシア史で «銃兵» と言うと、銃を携行する職業軍人のことではなく、1550年前後にその中から選抜されて常備軍として創設された新規部隊の隊員を指す。これ以前の軍は、分領公や勤務公、大貴族などが個人的に率いる封建的なもので、兵士は専業ではなかった。銃兵は、ツァーリが直接平民から募ったもので、ツァーリの直轄軍でもある。のちに世襲化して軍事貴族化し、17世紀末には皇位継承にも大きな影響力を持つまでになった。1698年に廃止される。もっとも、北方戦争により解散は一旦撤回されたが、ポルターヴァの戦い後に最終的に解散。

 カザンではクリミア・タタールの専横に対するカザン・タタールの反発が高まり、1551年、クーデタが発生。ウテミシュ=ギレイは廃位され、ロシアに引き渡された。イヴァン・ヴァシーリエヴィチは代わりにシャー=アリーをカザン・ハーンに就けた。カザンは再びロシアの属国となった。
 1552年、再びカザンでクーデタ。シャー=アリーが追われ、ノガイからヤーディヤール=ムハンマドが招かれた。ヤーディヤール=ムハンマドはアストラハン・ハーンだったカーシムの子。1542年にロシアに亡命してきたが、その後1550年にはノガイに再亡命していた。これはつまり、単純に図式化すれば、反ロシア派が実権を握って親ロシア派が失権したことになる。
 イヴァン・ヴァシーリエヴィチは、最終的なカザンの併合を目指して新たな軍事遠征を準備。これに危機感を覚えたクリムのデヴレト=ギレイが、1552年にロシアに侵攻。しかしロシア軍はこれをトゥーラで撃退し、そのままカザンに向かった。さらにイヴァン・ヴァシーリエヴィチ自身も出陣し、カザンそのものを攻囲した(ちなみにカザンそのものの攻囲は5回目)。1ヶ月に及ぶ攻囲戦の末、ついにカザンを陥落させる。
 ヤーディヤール=ムハンマドを捕虜としたイヴァン・ヴァシーリエヴィチは、アレクサンドル・ゴルバートィイ=シュイスキイ公を代官として残し、モスクワに帰還した。

ウテミシュ=ギレイは、1553年に正教に改宗し、アレクサンドル・サファギレーエヴィチの洗礼名をもらった。当時まだ6歳だったからか、分領は与えられていないようだ。1566年、おそらく20歳にならずして死去。クレムリンのアルハンゲリスキイ大聖堂に葬られた。
 ヤーディヤール=ムハンマドも、同じく1553年に正教に改宗し、シメオーン・カサーエヴィチの洗礼名をもらった。«ツァーリ・カザンスキイ» (カザンのツァーリ)と呼ばれている。ズヴェニーゴロドを分領としてもらい、クトゥーゾフ家の娘と結婚している。1565年に死去。クレムリンのチュードフ修道院(現存しない)に葬られた。
 ちなみに、シャー=アリーはカシーモフを与えられ、リヴォニア戦争でも軍司令官(多分に名目的)として活躍している。1566年に死去。歴代カシーモフ・ハーンと同様、カシーモフに葬られている。

 1553年、重病に陥り、いのちが危ぶまれた。この時、イヴァン・ヴァシーリエヴィチは長男ドミートリイ・イヴァーノヴィチを後継者にするよう望んだが、大貴族や聖職者たちはスターリツァ公ヴラディーミル・アンドレーエヴィチを後継者に推した。すでに長子相続の原則は確立しつつあったと言えるかもしれないが、肝心のドミートリイ・イヴァーノヴィチが当時まだ生後1年であってみれば、権力の安定を望む大貴族たちが幼児ではなく成人男子を後継者に推したのも無理からぬところだろう。これには大貴族だけでなく、シリヴェストルやアダーシェフなどイーズブランナヤ・ラーダの面々も賛同した。
 この時、ヴラディーミル・アンドレーエヴィチはドミートリイ・イヴァーノヴィチに対する忠誠の誓いを拒否したのみならず、自身に仕える貴族たちを招集し、軍を呼び寄せたと言われる。ただしこの話には証拠がなく、ゆえにヴラディーミル殺害のアリバイ作りとの説もある。
 いずれにせよイヴァン・ヴァシーリエヴィチは奇蹟的に快復し、すべては以前通りに戻ったが、シリヴェストルやアダーシェフに対する不信感が残ったと言われる。

 この1553年、北極海で遭難したイングランド人リチャード・チャンセラーが北ドヴィナー河口部(のちのアルハンゲリスク)に漂着し、モスクワでイヴァン・ヴァシーリエヴィチと会見した。こうして、北極海ルートによるロシアとイングランドとの交易が開かれた。チャンセラーの会社は1554年に «モスクワ会社» と改称し、女王メアリ1世やエリザベス1世の庇護も受け、ロシアとの交易をほぼ独占した。これはひとつには、ロシアと西欧とを結ぶリヴォニア、バルト海経由の交易路がハンザ同盟に押さえられていたためである。
 モスクワ会社は、北極海やロシアを経由した交易路の開拓に熱心で、それがそのままロシアの交易の拡大に寄与した側面もある。アンソニー・ジェンキンスンなどは1558年にブハラへ、1561年にはペルシャへと陸路赴き、交易路の確立を模索した(いずれも失敗している)。

 ロシアとアストラハン・ハーン国との関係は、これまではどちらかというと商業的なものであった(ヴォルガ河による交易)。しかしカザン・ハーン国を併合したことで、ロシアはアストラハン・ハーン国へも勢力浸透を図る。
 そのアストラハン・ハーン国では、ノガイが大きな影響力を行使し、これにクリムのサーヒブ=ギレイが介入。1550年にはサーヒブ=ギレイの擁立したアク=クベクが、ノガイに後押しされたヤムグルチにハーン位を追われていた。他方、かつて(1537-39)ハーンであったデルヴィシュ=アリーは、1552年にロシアに亡命しており、イヴァン・ヴァシーリエヴィチにズヴェニーゴロドを与えられていた。
 1554年、イヴァン・ヴァシーリエヴィチはアストラハンにユーリイ・シェミャーキン=プロンスキイ公を派遣。ロシア軍は首都ハジ=タルハンを攻略し、ヤムグルチをテレク川の南に追ってデルヴィシュ=アリーをハーンに就けた。
 こうしてアストラハン・ハーン国は事実上ロシアの属国となったが、依然としてノガイが大きな影響力を持ち、デルヴィシュ=アリー自身もロシアの影響力から逃れるためにクリムのデヴレト=ギレイに接近。
 1556年、イヴァン・ヴァシーリエヴィチはイヴァン・チェレミーシン率いる軍を派遣。デルヴィシュ=アリーはアゾーフに逃亡し、一切の戦闘なしにロシアはアストラハン・ハーン国を併合した。
 なお、カザン・ハーン国とアストラハン・ハーン国を併合し、ノガイをも圧迫するようになったことで、ヴォルガ流域にいたバシュキール人の大部分を臣従させた(ウラル方面のバシュキール人を臣従させたのは、シビル・ハーン国併合以降のこと)。こうしてヴォルガはその全流域が初めて «ロシアの川» となった。

 シビル・ハーン国については、必ずしもはっきりしたことがわかっているわけではないが、最盛期の版図・勢力圏は大雑把にこんにちのテュメーニ州を中心に、西のスヴェルドローフスク州、東のトムスク州やノヴォシビルスク州、南のオムスク州やクルガーン州、さらにはカザフスターン北部にも及んでいたのではないかと想像される。核となったのはイルトィシュ川とトボル川の合流地点にあるカシュルィク(のちのトボーリスク近郊)や、その南西のチンギ=トゥラ(のちのテュメーニ近郊)。この地域を支配したのはタイブガ家だが、これはチンギス・ハーンの血を継いでいない(継いでいるとする説もある)。このため、その南方に勢力を拡大したシャイバーニー家(バトゥの弟シバンの子孫)の圧迫を受けていた。
 ちなみに、テュメーニ・ハーン国などと呼ばれるのは通常、このタイブガ家の支配地を奪ったシャイバーニー家の国家を指す(らしい)。
 1555年、シャイバーニー家のクチュムがタイブガ家の領土を攻撃。タイブガ家のヤーディヤール(エディゲル)は、頼みとなるカザンを失い、クリムとは遠く離れているため、イヴァン・ヴァシーリエヴィチに接近した。カザンとアストラハンの併合を祝い毎年の朝貢を誓った代わりに、庇護を要請した。ちなみにこの時期、ノガイのベイ(ベク)もイヴァン・ヴァシーリエヴィチに忠誠を誓っており、現実的な拘束力がどの程度だったかはともかくとして、イヴァン・ヴァシーリエヴィチはタタール系勢力の大部分を勢力圏に組み込んだことになる。
 ちなみに、西シベリアは当時のロシアにはあまりに遠すぎ、イヴァン・ヴァシーリエヴィチにはヤーディヤールを支援することなどできるはずもなかった。ヤーディヤールからの朝貢もいつか途絶え、1563年にはクチュムがヤーディヤールを追って西シベリアの権力を握った。チンギス・ハーンの末裔のみがハーンになれる、という伝統からすると、シビル・ハーン国はこの時に成立したというべきだろう。
 イヴァン・ヴァシーリエヴィチにとっては、西シベリアに手出しをするよりもウラルの西側を支配下に組み込むことの方が先であった。しかも、政治・軍事的に脅威になる勢力が存在しないこの地域の併合よりも、イヴァン・ヴァシーリエヴィチにはほかに優先すべきことが多すぎた。おそらくこのためだろう。1558年、イヴァン・ヴァシーリエヴィチはストローガノフ家に、カーマ・チュソヴァーヤ流域(旧カザン・ハーン国の北東)の支配権を与え、20年間の税免除を認める。これによりストローガノフ家がウラル平定の主力となる。

ストローガノフ家の素性ははっきりしないが、15世紀後半にソリヴィチェゴーツク(アルハンゲリスク州、ヴォーログダ州、キーロフ州の境目)を拠点としたフョードル・ルキーチ(-1497)の存在は確かである。その子アニケイ・フョードロヴィチ(1488-1570)が製塩所を開き、ストローガノフ家は一躍ロシア最大の実業家となった。さらに北ドヴィナーの河口にあるアルハンゲリスクとモスクワとを結ぶ中継貿易にも手を伸ばし、権力とも結びついて巨万の富を築いた。

 スウェーデンでは、1523年にグスタフ・ヴァーザが議会に選ばれて王位に就いていたが、イヴァン・ヴァシーリエヴィチはかれを対等な君主として遇していなかった(理由は種々あって、ヴァーザ家がもともと単なる貴族の家系だったこと、ロシアが半世紀来デンマークと結んでいたこと、等々)。加えて、フィンランド方面における国境を巡るノーヴゴロドとスウェーデンとの紛糾も、ロシアに引き継がれており、両国関係はもともと緊迫したものであった。
 1554年、スウェーデンとロシアとの間に戦争が勃発した。グスタフ・ヴァーザは1537年にエレーナ・グリンスカヤと不戦条約を結んでいたが、国内の叛乱を収め、デンマークとの争いも一段落ついたことから、ロシアに目を向けたということなのだろう(さらにはリヴォニア問題も絡んでいたものと想像される)。おそらく、アストラハン・ハーン国対策などを抱えたイヴァン・ヴァシーリエヴィチの側から始めた戦争ではないと思われる(逆に戦争の経過につれて、リヴォニアに関心を深めていった)。
 1555年、スウェーデン軍がオレシェクを攻撃。これに対して1556年、ロシア軍はヴィープリ(ヴィボルグ)を攻略するが、いずれも陥とせず。戦線は膠着状態に陥り、1557年に講和条約が結ばれた。条約がモスクワではなくノーヴゴロドで結ばれたこと、領土変更がなかったとはいえ内容が比較的ロシア側に有利であったこと等から、講和条約もまたスウェーデン側のイニシャティヴで結ばれたものと考えることができよう。

 1558年、イヴァン・ヴァシーリエヴィチはベリョーフ公イヴァン・イヴァーノヴィチをヴォーログダに追放。おそらくこれによりベリョーフ公領を併合する。

 カザン・ハーン国とアストラハン・ハーン国(加えてバシュキール)を併合したことで、ロシアは南方に大きく勢力を拡大した。しかしその南方には、さらにノガイ・ウルスとクリム・ハーン国が存在していた。たとえばアダーシェフは、この制圧を優先するよう主張していた。
 これに対して、とりあえず最大の脅威であったカザン・ハーン国を併合したことで、イヴァン・ヴァシーリエヴィチはその目を西に向けていた(スウェーデンとの戦争でさらに西への関心が高まったという側面もあるかもしれない)。その西では、リヴォニアが瓦解状態にあり、ここをどこが押さえるかが地域的課題となりつつあった。
 リヴォニアでは、すでに1435年にリヴォニア騎士団、ハンザ諸都市(リガ・ドールパト・レヴァル)、そして聖界諸侯領(リガ大司教領・ドールパト司教領・エーゼル=ヴィーク司教領・クールラント司教領・レヴァル司教領)とが «リヴォニア連盟» を結び、一種の連合国家を形成していた。しかしドイツ騎士団の世俗化(1525年、ポーランド王臣下のプロイセン公となる)によりリヴォニア騎士団は大きく弱体化していた。ハンザ都市はハンザ同盟の弱体化に伴い外敵に孤立無援で対処することを余儀なくされていた。さらにプロテスタントの浸透により騎士団も聖界諸侯も存在の基盤を失い、住民との乖離が進んでいた。しかもそのような状況において、リヴォニア騎士団とリガ大司教は依然として地域的覇権を巡って対立を続けていた。
 他方、周辺諸国はと言えば、フィンランドを押さえるスウェーデンはフィンランド湾をはさんで対岸にあるリヴォニアに大きな関心を抱いていたし、ポーランド=リトアニアはプロイセンのようにリヴォニアも世俗化して自身の領土に組み込もうとしていた。デンマークもかつてエストニアを領有していた歴史を忘れてはいなかった。そしてノーヴゴロドとプスコーフを併合したモスクワ/ロシアも、歴史的・経済的観点からリヴォニアへの領土拡張を目論んでいた。
 こうして、リヴォニアを巡る周辺諸国間の戦争は不可避な状況になりつつあった。

ドールパトは、もともとは1030年にヤロスラーフ賢公が建てた都市ユーリエフ。1224年にリヴォニア騎士団に奪われ、ドイツ語でドールパト Dorpat と呼ばれた(デルプト Dörpt とも呼ばれる)。リヴォニア戦争でポーランド=リトアニア領となり(ポーランド語でもドールパト)、1629年にスウェーデン領。1721年にロシア領となる(ロシア語ではデルプト Дерпт)。エストニアの独立に伴いエストニア語でタルトゥ Tartu と呼ばれるようになった。
 レヴァルは1219年にデンマークに占領され、レヴァル Reval と呼ばれるようになった。1346年、リヴォニア騎士団に売却される(ドイツ語でもレヴァル)。1710年、ロシア領に(ロシア語ではレーヴェリ Ревель)。エストニアの独立に伴いエストニア語でタリン Tallinn と呼ばれるようになった。

ドールパトを中心に、エストニア東部は長くキエフ・ルーシ、特にノーヴゴロドの勢力圏内にあった。また河口部にリガを擁する西ドヴィナー川(ダウガヴァ川)流域は、12世紀には下流域までポーロツク公領であったと考えられる。経済的にも、ロシアと西欧との交易にはリヴォニアが立ちはだかっており、ノーヴゴロドを中心にロシア商人はハンザ都市を経由しなければ西欧と交易ができなかった。

 1558年、シャー=アリーを司令官とするロシア軍がリヴォニアに侵攻。リヴォニア戦争が始まった。
 ミハイール・グリンスキイ(かつての権力者)、アレクセイ・バスマーノフ、ダニイール・アダーシェフ(アレクセイの兄)、ピョートル・シュイスキイ公、ヴァシーリイ・セレーブリャヌィイ=オボレーンスキイ公などの活躍で、ロシア軍はナルヴァ、ドールパトを占領し、レヴァルを攻囲。この快進撃には、スウェーデンもポーランド=リトアニアも手を出さなかったことが大きい。スウェーデンではグスタフ・ヴァーザが晩年を迎え、1560年には死去。ポーランドはリヴォニアに関心を持たず(リヴォニアに関心を持っていたのはリトアニア)、ゆえに軍事費負担を理由に介入に反対していた。同時に、イーズブランナヤ・ラーダによる軍制改革と、銃兵・砲兵の拡充が大きな意味を持った。
 しかしそのイーズブランナヤ・ラーダは、基本的にクリム・ハーン国対策を優先してリヴォニア戦争には反対していた。このため、すでに影響力を低下しつつあったイーズブランナヤ・ラーダは、リヴォニア戦争緒戦の好調に気をよくしたイヴァン・ヴァシーリエヴィチにより解散させられる。イヴァン・ムスティスラーフスキイ公は1559年に、アレクセイ・アダーシェフも1560年に前線に送られ、シリヴェストルは1560年に北方に追放された。ドミートリイ・クルリャーテフ=オボレーンスキイ公は1562年に修道士にさせられ、ヴィスコヴァートィイも1563年にデンマークに派遣され、その年、府主教マカーリイも死去。1564年にはアンドレイ・クールブスキイ公がリトアニアに亡命し、イーズブランナヤ・ラーダは空中分解した。

 リヴォニア戦争の進展に伴い、リヴォニア連盟の空中分解も進んだ。
 1560年、エーゼル=ヴィーク司教兼クールラント司教は領土をデンマーク王フレデリク2世に売却。これにレヴァル司教も続き、ロシアに占領されていたドールパト司教領とともに、聖界諸侯領5つのうち4つが消滅した。ちなみにフレデリク2世は弟マグヌスを送り込み、リヴォニア北西部(大雑把に現エストニア西部)を領有させた。
 1561年、リヴォニア連盟は解体。リヴォニア騎士団は解散し、リガ大司教領も世俗化された。最後のリヴォニア騎士団長ゴットハルト・ケトラーはクールラント=セミガリア公としてリトアニア大公(ポーランド王)ジグムント2世・アウグストの臣下となり、リヴォニア南部を領土とした。リヴォニア中央部は «リヴォニア公領» としてリトアニア大公の直轄領となり、北部ではスウェーデンが上陸してレヴァルを併合して «エストニア公領» をつくった(これにより北部は、西から、デンマーク、スウェーデン、ロシアに三分割された)。

 1562年、イヴァン・ヴァシーリエヴィチとフレデリク2世はモジャイスク条約を結ぶ。これにより両者は、(同盟ではないが)友好的な関係を維持し、リヴォニアにおける相互利益を尊重することを約した。
 フレデリク2世はさらにリューベック(ハンザ都市)、ジグムント2世・アウグストとも結び、1563年、スウェーデンとの戦争を始めた。これは «北方七年戦争» とも «第一次北方戦争» とも呼ばれる。他方、イヴァン・ヴァシーリエヴィチはこの年リトアニアに侵攻し、ポーロツクを占領した。
 こうして、エストランドを三分割したうちデンマークとロシアが同盟し、一方でデンマークがスウェーデンと、他方でロシアはリトアニアとの戦闘に重心を移したため、ロシアとスウェーデンにとってエストランドを巡る対立は二の次となった。1564年、イヴァン・ヴァシーリエヴィチとスウェーデン王エーリク14世は7年間の休戦条約を結び、それぞれリトアニア、デンマークとの戦争に集中することになった。
 1564年、ポーロツクからドルツクに向かう途上で、ロシア軍はリトアニア軍の攻撃に逢い、大敗を喫する(ピョートル・シュイスキイ公は戦死した)。さらにこの年、アンドレイ・クールブスキイ公がリトアニアに亡命。これらにより、ここまでロシア優位に推移していたリトアニアとの戦争が、徐々に膠着状態に陥っていく。

 この頃ザカフカージエはオスマン帝国とサファヴィー朝の圧力にさらされていたが、その中でグルジアは3つの国、イメレティ、カヘティ、カルトリに分裂していた。1563年、カヘティ王レヴァンより使節が来る。これはロシアとザカフカージエとの最初の外交的接触となった。これに応えてイヴァン・ヴァシーリエヴィチはカヘティに軍を派遣。

 1560年、アナスタシーヤ・ロマーノヴナが死去。イヴァン・ヴァシーリエヴィチは毒殺を疑ったと言われる。幼少期の大貴族たちの権力闘争や、1553年の病気の際の側近たちの行動も、イヴァン・ヴァシーリエヴィチの猜疑心を募らせる要因になったと考えられるが、父や祖父の行状を考えてみると、やはりこの一族は代々パラノイアだったのだろう(ただし中でもイヴァン・ヴァシーリエヴィチは特にひどい)。いずれにせよ、アナスタシーヤ・ロマーノヴナの死、そして続く府主教マカーリイの死で、イヴァン・ヴァシーリエヴィチはタガがはずれたように貴族たちへの弾圧を開始した。犠牲となった中には、ドミートリイ・オフチーニン=テレプニョーフ=オボレーンスキイ公ミハイール・レプニーン公ユーリイ・イヴァーノヴィチ・カーシン公などがいる(ちなみに、偶然だが、この3人はいずれもオボレーンスキイ一族)。
 ある意味で、貴族弾圧の決定打が、1565年に導入された «オプリーチニナ体制» であったと言えるだろう。
 1564年、セールギエフ・ポサードの聖三位一体セールギイ修道院に詣でた後、イヴァン・ヴァシーリエヴィチは何を考えたか、モスクワに戻らずにアレクサンドロヴァ・スロボダーへ。退位を宣言。これに驚いた市民や貴族が慰留すると、絶対的独裁権を要求。これを手に入れた。これに伴いイヴァン・ヴァシーリエヴィチは、ロシア全土を «オプリーチニナ» と «ゼームシチナ» とに二分した。
 ゼームシチナは公領であり、モスクワの宮廷と行政機構が通常に管理した。その «筆頭ボヤーリン» にはイヴァン・ベリスキイ公、«次席ボヤーリン» にはイヴァン・ムスティスラーフスキイ公を充ててその運営を委ねた。
 オプリーチニナとは、言わばツァーリたるイヴァン・ヴァシーリエヴィチの私領。アレクサンドロヴァ・スロボダーを «首都» に、«オプリーチニク» と呼ばれる親衛隊を手足として、法的制約に囚われずに好き勝手なことをした。ここには独自の行政機構や軍(オプリーチニク軍)もあり、言わば «国家の中の国家» となった。
 オプリーチニナでは大貴族の所領が没収されるなど、伝統的にオプリーチニナ体制は大貴族との闘争を目的としていたと解釈される。事実所領がオプリーチニナに組み込まれた大貴族は所領を失い、ゼームシチナへの転居を余儀なくされた。これにより古くからの世襲領地を失った大貴族たちが地域とのつながりを絶たれ、その勢力基盤を弱体化させた。しかし所領を没収されなかった大貴族も多いし、オプリーチニクとなって弾圧する側にまわった大貴族も少なくない。しかも弾圧されたのは大貴族ばかりではなく、新興勤務貴族や市民、農民など、無差別であった。本来の意図がどうであれ、実際にはオプリーチニクによるテロが横行するだけの恐怖政治が敷かれることになった。

アレクサンドロヴァ・スロボダーは、モスクワの北東にある集落。

著名なオプリーチニクとしては、マリュータ・スクラートフ、アレクセイ & フョードル・バスマーノフ父子、ヴァシーリイ・グリャズノーイ、ボグダーン・ベリスキイ、アファナーシイ・ヴャーゼムスキイ公などがいる。リューリコヴィチの分領公出身であったヴャーゼムスキイ公は別格としても、バスマーノフ父子は由緒正しいボヤーリンの家系プレシチェーエフ家の出だし、素性は必ずしも定かではないがスクラートフもベリスキイも大貴族(ゲディミノヴィチ?)の出とも言われる。下級貴族出身であることが確かなのは、この中ではグリャズノーイぐらいである。

 1565年、カザン征服の英雄アレクサンドル・ゴルバトーイ=シュイスキイ公を処刑。

 リトアニアとの戦争は、1564年から停滞していた。ジグムント2世・アウグストとしてはリヴォニアの大半を確保し、ポーロツクは奪われたものの戦況を優位に進めている状況で、おそらく潮時と思ったのだろう。1566年、イヴァン・ヴァシーリエヴィチに対して休戦を提案してきた。
 これに対してイヴァン・ヴァシーリエヴィチは、ゼームシチナの会議を招集し、これに停戦を議論させた。これは第3回全国会議とも呼ばれるが、参加者はゼームシチナの住人のみで、オプリーチニナは無関係。戦争継続の責任(戦費負担も含めて)をゼームシチナに押し付けようというイヴァン・ヴァシーリエヴィチの意図があったものと考えられている。この会議では、聖職者はリガの確保を訴え、大貴族たちはリヴォニアにおける所領獲得に野心を見せ、商人はバルト海への通商路の確保を主張した。結局戦争継続の声が多数を占め、講和の提案を拒否することになった。
 この会議では同時に、オプリーチニナ体制の廃止を訴える嘆願も出された。これに怒ったイヴァン・ヴァシーリエヴィチは、オプリーチニクによるテロで応えた。この時期には、ヴァシーリイ & アレクサンドル・プローゾロフスキイ公兄弟やアンドレイ・カトィレフ=ロストーフスキイ公アンドレイ・アリョーンキン公などが犠牲となっている。
 府主教アファナーシイは1566年に府主教を辞任してチュードフ修道院に戻ったが、これもオプリーチニナ体制を巡るイヴァン・ヴァシーリエヴィチとの対立が原因とされることがある。続くフィリップは、会議の直後に府主教に選出されたが、就任にあたってイヴァン・ヴァシーリエヴィチにオプリーチニナ体制の廃止を訴えている。その後も、オプリーチニクのテロからその標的とされた貴族たちを庇護したりして、イヴァン・ヴァシーリエヴィチと対立した。

 ちなみに1567年、モスクワを訪れたアンソニー・ジェンキンスンに託した書簡の中で、イヴァン・ヴァシーリエヴィチは、イングランド女王エリザベス1世に結婚を申し込んでいる。

 1568年、スウェーデン王エーリク14世が廃位、投獄された(弟ヨハンが即位し、エーリクはのちに獄死)。1569年には妃マリーヤ・テムリューコヴナが死去。今回もイヴァン・ヴァシーリエヴィチは貴族による毒殺を疑った。
 このふたつの出来事は互いに無関係だが、イヴァン・ヴァシーリエヴィチの猜疑心を大いに刺激した。特に1568年にはモスクワの貴族たちにリトアニアへの鞍替えを促すジグムント2世・アウグストからの書簡がイヴァン・ヴァシーリエヴィチの手に陥ち、その結果1568年だけで、ピョートル・シチェニャーテフ公以下、モスクワで150人以上の大貴族(やその関係者)を処刑したと言われる。
 これを弾劾した府主教フィリップを、イヴァン・ヴァシーリエヴィチはでっち上げの罪状で宗教裁判にかけた。ヴァシーリイ・テョームキン=ロストーフスキイ公やノーヴゴロド大主教ピーメンの支持で、フィリップを追放(翌年、おそらく暗殺)。
 1569年、スターリツァ公ヴラディーミル・アンドレーエヴィチ一族を弾圧。ヴラディーミル・アンドレーエヴィチ本人と妃には毒をあおらせたほか、母后エヴドキーヤをも処刑した。

 1570年、ヴラディーミル・アンドレーエヴィチとの共謀、さらにはリトアニアとの共謀すら疑ったイヴァン・ヴァシーリエヴィチは、オプリーチニク軍団を使い、ノーヴゴロドを破壊。犠牲者の総数は不明だが、少なくても数千、多くて1万数千にのぼると考えられている(当時のノーヴゴロドの総人口は3万程度)。のみならず、ノーヴゴロド周辺の耕地の90%を焼き払ったとも言われ、この打撃から立ち直ることのできなかったノーヴゴロドはこんにちにいたるまで単なる一地方都市でしかない。ちなみに、大主教ピーメンも解任、追放された。
 イヴァン・ヴァシーリエヴィチとオプリーチニク軍団はプスコーフに向かい、ここでも多数の住人を虐殺。
 さらにモスクワに戻ると、イヴァン・ヴァシーリエヴィチは長らくオプリーチニナ体制を支え続けていた側近たちに矛先を向ける。アファナーシイ・ヴャーゼムスキイ公、バスマーノフ父子、ヴィスコヴァートィイ、ピョートル・セレーブリャヌィイ=オボレーンスキイ公、イヴァン・ヴォロンツォーフなど、翌1571年にかけて数百人を処刑した。

 こうしてイヴァン・ヴァシーリエヴィチがオプリーチニナ体制で国内を混乱に陥れている最中に、周辺諸国の情勢は大きく変わりつつあった。
 1569年、ポーランドとリトアニアはルブリン条約によって統一国家となる。事実上ポーランドがリトアニアを併合した形で、これによりロシアとリトアニアとの戦争はロシアとポーランド=リトアニアとの戦争に転化。
 さらに1570年には、シュテッティン条約によってデンマークとスウェーデンの北方七年戦争が終結し、デンマークはエストランドから締め出された。これによりエストランドを確保したスウェーデンが、再びリヴォニアに目を向けることになった。
 デンマークがエストランドから追われると、孤立無援となったのがその王子マグヌスであった。かれはエーゼル=ヴィークの自領を守るため、イヴァン・ヴァシーリエヴィチに接近。1570年、モスクワに赴いたマグヌスは、イヴァン・ヴァシーリエヴィチに忠誠を誓って «リヴォニア王» となり、ヴラディーミル・アンドレーエヴィチの遺児エヴフィーミヤと婚約した(その死後、妹マリーヤと結婚)。マグヌス率いるロシア軍はレヴァルを攻囲したが、ロシアが水軍を持たなかったため(デンマークも援軍を派遣しなかった)、1571年には撤退を余儀なくされた。

 オスマン帝国ではアストラハン・ハーン国を奪還しようとする動きが高まり(もともとオスマン帝国の領土ではなかったが)、1569年に大規模な遠征軍がアーストラハニに派遣された。これを、ピョートル・セレーブリャヌィイ=オボレーンスキイ公が撃破。1570年にはイスタンブールでロシアとオスマン帝国の講和条約が結ばれた。
 オスマン帝国の圧力は跳ね返したものの、まだロシアのヴォルガ下流域や北カフカーズ掌握は安定しなかった。このため1571年、サファヴィー朝の圧力もあり、1563年に派遣していた軍をカヘティから撤退させることを余儀なくされた。アストラハン・ハーン国を併合したばかりで、ザカフカージエへの進出はさすがに時期尚早だった。
 クリム・ハーン国では、1551年にハーンとなったデヴレト=ギレイが、しばしばノガイと結んでロシアに侵攻してきた(主にムーロム=リャザニ地方)。そのような襲来は、記録から推測すると、1552年、1559年、1560年、1562年、1563年、1564年、1565年、1566年、1570年と続いていた。
 1571年、デヴレト=ギレイによるロシア遠征。恒例のセーヴェルスカヤ・ゼムリャー攻略に乗り出したデヴレト=ギレイだったが、途中で目的地をモスクワに変更。不意をつかれたイヴァン・ヴァシーリエヴィチはロストーフに逃亡。イヴァン・ベリスキイ公イヴァン・ムスティスラーフスキイ公の率いる軍(ゼームシチナの貴族軍)がモスクワの救援に駆けつけるが、クリム・ハーン軍はモスクワを焼き討ち。大量の略奪品と捕虜を獲得し、悠々とステップに引き上げていった。おそらくクリム・ハーン軍によるロシア遠征で最も成功したもの。
 これに味をしめたか、1572年、デヴレト=ギレイは前回を上回る大軍を率いてモスクワ目指して遠征。セールプホフ北方のモローディ村近郊で行われた会戦で、ヴォロトィンスク公ミハイール・イヴァーノヴィチ率いるロシア軍は、2倍のクリム・ハーン軍を撃破した。クリミアに帰還したクリム・ハーン軍の兵士は、出陣時の6分の1だったと言われる。

 1572年、事実上オプリーチニナ体制を廃止する。とはいえオプリーチニナ体制の仕組みすべてが完全に廃止されたわけではない。オプリーチニク(あるいは同様の活動をする連中)は存続し、無差別テロを継続している。とはいえ、1573年に、オプリーチニクの中心人物だったマリュータ・スクラートフがリヴォニアで戦死したことで、その活動が下火になった側面はある。
 1573年にはヴォロトィンスク公ミハイール・イヴァーノヴィチオドーエフ公ニキータ・ロマーノヴィチを処刑し、ヴォロトィンスク公領とオドーエフ公領を併合した。これは父祖の代から続く、分領併合政策の一環とも言えるが、同時にオプリーチニクによる政治的テロの継続でもあった。

 1573年、カシーモフ・ハーンのサイン=ブラトが正教に改宗(洗礼名セミョーン・ベクブラートヴィチ)。イスラームを棄てたため、カシーモフ・ハーン位を降りて、カシーモフ・ハーン位は空位となった。
 もっともカシーモフ・ハーン位は、シャー=アリーがカザン・ハーンとなった1546年以降は、誰がハーンだったのかよくわからない。おそらくシャー=アリーがハーンだったのだろうが、1566/67年にシャー=アリーが死んだ後も、サイン=ブラトが後を継いだと考えられているものの正確なところは不明。この後も、イヴァン・ヴァシーリエヴィチの死に際してムスタファー=アリーが即位するまで10年以上の空位が続く。

サイン=ブラト(-1616)は、大ハーン(1465-81)だったアフマドの曾孫。父ベク=ブラトはアストラハン・ハーンだったアク=クベクの従兄弟であり、サイン=ブラト自身ヤムグルチやデルヴィシュ=アリーの又従兄弟にあたる。その前半生はよくわからないが、アストラハン・ハーン国における内紛を避けてか、あるいはアストラハン・ハーン国がロシアに併合されたのを受けてか、1560年代にはイヴァン・ヴァシーリエヴィチの取り巻きになっていたらしい。1573年に改宗すると同時に結婚しているところを見ると、没年も考慮すれば、かれの生年は1540年代と考えていいのではないだろうか。ちなみに妻はイヴァン・ムスティスラーフスキイ公の娘。
 ちなみにかれの洗礼名は、当時の文献によればシメオーン。現代ロシア語ではセミョーン。シメオーンと古い形で記す文献が現代にも多いが、ここでは新しい形セミョーンで表記する。セミョーンをシメオーンと表記するのは、イヴァンをヨアンと表記するようなものだと思うので。

 1572年、ポーランド=リトアニア王ジグムント・アウグストが死去。跡継ぎはおらず、ヤギェウォ王家が断絶した。
 ポーランド=リトアニアではこの時を見据えて数年前から準備が進んでおり(1569年のルブリン合同もその一環)、すぐさま国王選挙の手続きが開始された。ちなみに、この時リトアニア貴族の中には、ポーランドへの従属をよしとせず、イヴァン・ヴァシーリエヴィチに王位を提供した者もあったという。結局王位に就いたのはアンジュー公アンリ(ポーランド語でヘンリク・ヴァレジ)、フランス王シャルル9世の弟だった。しかしシャルル9世の急死により、アンリがポーランドから夜逃げしてパリでフランス王位を継いだだめ、1575年に再び国王選挙が実施される。1576年にトランシルヴァニア公バートリ・イシュトヴァーン(ポーランド語でステファン・バトーリ)が王として即位するが、ハプスブルク家のマクシミリアンとの王位を巡る争いや、かれに反発する国内勢力の叛乱、またリトアニアとの関係の調整などで手間取り、しばらくはごたごたが続いた。
 こうしたリトアニア(ポーランド)の混乱と、スウェーデンの戦費不足をついて、ロシア軍はリヴォニアにて攻勢を強め、1576年までにレヴァルとリガを除く西ドヴィナー以北のリヴォニアをほぼ制圧した。

 1575年、イヴァン・ヴァシーリエヴィチは突然セミョーン・ベクブラートヴィチに譲位し、自らは分領公としてモスクワ公を名乗った。実際、イヴァン・ヴァシーリエヴィチはわざわざウスペンスキイ大聖堂でセミョーン・ベクブラートヴィチの戴冠式までおこなっている。クレムリンはセミョーン・ベクブラートヴィチに譲り、自らは近郊のペトローフカに移った。セミョーン・ベクブラートヴィチへの書簡でも、イヴァン・ヴァシーリエヴィチは主君と臣下の区別をきちんとつけている。こうして形式上、セミョーン・ベクブラートヴィチがツァーリとなり、イヴァン・ヴァシーリエヴィチはかれに仕える勤務公のひとりとなった。
 とはいえ、実権は依然としてイヴァン・ヴァシーリエヴィチが握ったままだった。領土は大公セミョーン・ベクブラートヴィチの直轄領とモスクワ公イヴァン・ヴァシーリエヴィチの分領とに二分されたものの、またセミョーン・ベクブラートヴィチの署名した公文書なども残っているものの、最高権力者がイヴァン・ヴァシーリエヴィチである事実に変わりはなかった。
 ゆえに、11ヶ月後、イヴァン・ヴァシーリエヴィチは再びクレムリンに戻り、セミョーン・ベクブラートヴィチにはトヴェーリに領土を与え «トヴェーリ大公» を称させた。こうして «政治的マスカレード» は終わった。
 ただし、ここで問題がいくつかある。ひとつは、この時セミョーン・ベクブラートヴィチに譲られた «肩書き» が何であったか、である。イヴァン・ヴァシーリエヴィチはセミョーン・ベクブラートヴィチへの書簡の中では «全ルーシの大公 великий князь всея Руси» としか呼んでいない。このため、ツァーリ位はイヴァン・ヴァシーリエヴィチが握ったままだったとするのが一般的である。他方でイヴァン・ヴァシーリエヴィチは自身を «モスクワ公 князь Московский» と呼んでいて、ツァーリとは名乗っていない。そもそもクレムリンも明け渡し、戴冠式までおこない、自身をその臣下と位置づけている以上、ツァーリ位もまたセミョーン・ベクブラートヴィチに譲渡されたと見る方が妥当だろう。

 1577年、リヴォニア情勢は大きく動いた。早くも状況の変化を読み取ったか、マグヌスが秘密裏にステファン・バトーリとの交渉を開始。イヴァン・ヴァシーリエヴィチはかれを捕らえて投獄(のち、王位を放棄する条件で釈放した)。一方でステファン・バトーリとスウェーデン王ヨハン3世が、リヴォニアやポーランド=リトアニア王位継承を巡る両者の対立を棚上げして同盟。リヴォニア戦争において、ロシアは孤立無援となった。
 1578年、瑞波連合軍がヴェンデンを占領。これを奪い返そうとしたロシア軍は、ヴェンデン近郊の戦いで瑞波連合軍に壊滅的な敗北をこうむった。さらに翌1579年にかけて、ポーランド=リトアニア軍はポーロツク、ヴェリーキエ・ルーキなどを占領。ノーヴゴロド地方だけでなく、スモレンスク地方やセーヴェルスカヤ・ゼムリャーでもロシア軍を圧倒してロシア領を蹂躙した。
 1579年、スウェーデン軍がナルヴァ、オレシェク、カレリアに侵攻。
 1581年、スウェーデン軍がナルヴァ、イヴァンゴロド、コポーリエなどを占領。ポーランド=リトアニア軍はプスコーフを攻囲した。
 1582年、ステファン・バトーリとヤム・ザポリスキイ条約を締結し、ポーランドとの戦争を終わらせた。これにより、ポーランド=リトアニアがリヴォニアを確保した一方、ロシアは1558年の国境に戻された(ヴェリーキエ・ルーキなどは奪還したが、ポーロツクは失った)。
 1583年、ヨハン3世とプリュッサ条約を締結し、スウェーデンとの戦争を終わらせた。これにより、スウェーデンはコポーリエやナルヴァなどを確保。ロシアはリヴォニアのみならず、ネヴァ河口部を除くイングリア地方(現レニングラード州)を奪われ、バルト海への出口を(ネヴァ河口部を除き)失うことになった。
 こうして25年の長きにわたるリヴォニア戦争は幕を閉じたが、リヴォニアの獲得どころかフィンランド湾沿岸部を失うという、ロシアにとっては歴史的な敗北となった。

 1582年、長男イヴァン・イヴァーノヴィチを自らの手で殺す。

 ストローガノフ家は、ヴォグール人やオステャーク人(いまのハントィ人やマンシ人)の襲撃から領土を守るため、エルマーク・ティモフェーエヴィチ、イヴァン・コリツォー、ニキータ・パーン、マトヴェイ・メシチェリャークなどのドン・コサックを招いた。これは1579年とも1581年とも言われているが、ストローガノフ家の私的行為でもあってはっきりしない。かれらがシビル・ハーン国への遠征に出立したのも、一般的には1581年とされているが、1582年とする説もある。そもそもそのイニシャティヴはエルマークが握っており、ストローガノフ家は補給をしただけだとも言われるが、他方でそもそもストローガノフ家はこの遠征のためにコサックを招いたのだとも言われる。
 エルマーク率いるドン・コサックは、チュソヴァーヤ上流域(ウラル中部)から進撃を開始。山脈を越えて(船を抱えて)トゥーラ川、トボール川を下り、イルトィシュ川へ。10/11月には首都カシュルィクを攻略した。これによりイルトィシュ河畔のヴォグール人が帰服し、エルマークはイヴァン・コリツォーをモスクワに派遣した。
 カシュルィク陥落の報せを得たイヴァン・ヴァシーリエヴィチは、セミョーン・ボルホフスコイ公率いる従兵隊を派遣した(が、カシュルィクへの到着は翌1583年暮れ)。
 その後エルマーク率いるドン・コサックは、イルトィシュ流域、さらに下ってオビ流域の平定を進めたが、各地でヴォグール人やオステャーク人の抵抗に逢い、ニキータ・パーンを失くすなどの損失を出した。エルマーク自身、1585年に戦死している(他方でクチュムは1598年まで生き延びた)。

 イヴァン・ヴァシーリエヴィチは、1567年以来熱心にエリザベス1世との結婚を交渉してきたが、埒が明かないと見たか、1583年にはその «姪» であるメアリ・ヘイスティングスとの結婚を打診した。この話が進展する前に、イヴァン・ヴァシーリエヴィチは死を迎えた。

メアリ・ヘイスティングスはエリザベス1世の姪ではない。父方・母方双方においてヘイスティングス家、スタッフォード家、パーシー家、ネヴィル家、ボーフォート家、ウッドヴィル家、そしてヨーク王家と、いずれを通じてもエリザベス1世とつながってはいるものの、5親等以上離れている。

 その死に臨んでイヴァン・ヴァシーリエヴィチは、後継者フョードル・イヴァーノヴィチのために、ニキータ・ユーリエフ=ザハーリインイヴァン・シュイスキイ公イヴァン・ムスティスラーフスキイ公ボリース・ゴドゥノーフ、ボグダーン・ベリスキイから成る «摂政会議» を任命。死に際して修道士イオナとなる。
 クレムリンのアルハンゲリスキイ大聖堂に葬られる。

 添え名の «グローズヌィイ» は「グロザー(雷雨・夕立)の」という意味。それが転じて「威嚇的な、苛烈な、恐るべき」といった意味になった。英語などでは «the Terrible» と訳されているが、日本語の «雷帝» の方がニュアンス的には合っているように思う。

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最終更新日 27 01 2013

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