イヴァン・ドミートリエヴィチ・シェミャーキン
Иван Дмитрьевич Шемякин
ノーヴゴロド=セーヴェルスキイ公・ルィリスク公 князь Новгород-Северский и Рыльский
生:?
没:1485以前
父:ガーリチ公ドミートリイ・シェミャーカ (ズヴェニーゴロド公ユーリイ・ドミートリエヴィチ)
母:ソフィヤ (ザオゼーリエ公ドミートリイ・ヴァシーリエヴィチ)
結婚:?
子:
名 | 生没年 | 分領 | 結婚相手 | 生没年 | その親・肩書き | |
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母親不詳 | ||||||
セミョーン | ||||||
ヴラディーミル | ||||||
イヴァン | ||||||
1 | ヴァシーリイ | -1529 | ||||
マリーヤ |
第18世代。モノマーシチ(モスクワ系)。リトアニア大公の勤務公。
生年は不詳。両親の結婚が1436年であるので(母親がソフィヤ・ドミートリエヴナであるならば)、イヴァン・ドミートリエヴィチの誕生も当然それ以降ということになる。1453年の時点ですでにある程度の年齢だったと推定されるので、1430年代末の生まれと見ていいだろう。
父は1446年以降、モスクワ大公ヴァシーリイ2世とモスクワ大公位を巡って争っていた。1450年には敗北し、ノーヴゴロドに逃亡。以後、イヴァン・ドミートリエヴィチもノーヴゴロドで育った。
1453年、父が死去。イヴァン・ドミートリエヴィチはプスコーフに逃亡し、そこからさらにリトアニアに身を寄せた。
1454年、リトアニア大公カジミエラス/ポーランド王カジミェシュ4世により、ノーヴゴロド=セーヴェルスキイとルィリスクでの徴税権を認められた。どうやら厳密には «公» とされたわけではないようだが(詳細は知らん)、一般的にこれをもってイヴァン・ドミートリエヴィチは両公領の公になったとされる。
モスクワ大公は、ヴァシーリイ2世もイヴァン3世も、周辺諸国(ノーヴゴロドやトヴェーリ)との条約において、イヴァン・ドミートリエヴィチを «裏切り者» にして «追放者» であるので受け入れぬよう要求している。
イヴァン・ドミートリエヴィチについて知られる事柄は上記程度。没年すらも明らかではないが、1471年頃までは生きていたようだ。