リューリク家人名録

エレーナ・ステパーノヴナ «ヴォロシャンカ»

Елена Степановна "Волошанка"

モルドヴァ公女 княжна Молдавская
トヴェーリ公妃 княгиня Тверская

生:?
没:1505−モスクワ

父:モルドヴァ公シュテファン3世偉大公
母:エヴドキーヤ (キエフ公オレリコ・ヴラディーミロヴィチ

結婚:1483−モスクワ
  & トヴェーリ公イヴァン若年公 1458-90

子:

生没年分領結婚相手生没年その親・肩書き
イヴァン・イヴァーノヴィチと
1ドミートリイ1483-1509トヴェーリ

父はドラキュラのモデルともされるヴァラキア公ヴラド串刺し公の同時代人。
 ビザンティン帝国を滅ぼしてバルカン半島の覇権を握ったオスマン帝国と、中欧の大国ハンガリーと、さらには北方で勢力を拡大するポーランド=リトアニアと、この3つの勢力とどうかかわっていくかが、父シュテファン偉大公にとって大きな問題だった。
 一時はメフメト征服帝と同盟を結びもしたが、1470年代に入るとその関係にも亀裂が生じ、1476年にはオスマン軍に大敗を喫する。シュテファン偉大公は抵抗を続けるが、ともにオスマン軍に抵抗していたヴラド串刺し公も1477年には死に、情勢は日増しに厳しさを加えていっていた(ちなみに、1485年には首都スチェアヴァが陥落し、モルドヴァはオスマン帝国に屈した)。

 1480年、新たに北方で勢力を拡大しつつあるモスクワとの関係構築のため、シュテファン偉大公はモスクワに使節を派遣。少しでも支援の欲しいシュテファン偉大公と、ポーランド=リトアニアとの戦争でモルドヴァを味方につけたいモスクワ大公イヴァン3世との思惑が一致して、1482年にはヘレナはモスクワへ。そして1483年、イヴァン・イヴァーノヴィチと結婚した。

 イヴァン・イヴァーノヴィチイヴァン3世の長男であり、当然その後継者であった。しかし1490年にイヴァン・イヴァーノヴィチが死ぬと、イヴァン3世の後妻ソフィヤ・パレオローグとその周辺は、彼女の産んだヴァシーリイ・イヴァーノヴィチを後継者にしようと画策。イヴァン・イヴァーノヴィチとエレーナ・ステパーノヴナとの子ドミートリイ・イヴァーノヴィチヴァシーリイ・イヴァーノヴィチよりも幼年であり、モスクワでは必ずしも長子相続制が確立していなかったこともあって、イヴァン3世もしばらくはどちらを後継者にするか決めかねていたようだ。
 1497年、貴族会議書記ヴラディーミル・グーセフの陰謀が発覚。ヴァシーリイ・イヴァーノヴィチは監禁され、ソフィヤ・パレオローグは失権し、1498年、ドミートリイ・イヴァーノヴィチがウスペンスキイ大聖堂で大公に即位した。

 当時モスクワでは、正教会内部に «ジドーヴストヴユシチエ» と呼ばれる、フョードル・クリーツィンを中心とする一派があり、ユダヤ教の影響を受けた異端と見なされていた。エレーナ・ステパーノヴナはこれと密接なかかわりを持っていたらしい。またモスクワとシュテファン偉大公との関係も順調には行っていなかった(シュテファン偉大公は1499年にポーランドと講和している)。依然として策謀をやめないヴァシーリイ・イヴァーノヴィチを支持する一派が、こういった状況を利用したものと思われる。
 1502年、イヴァン3世はエレーナ・ステパーノヴナとドミートリイ・イヴァーノヴィチを投獄。ヴァシーリイ・イヴァーノヴィチを大公とした。

 その後の消息は不明だが、おそらく獄死したものと思われる。

 あだ名 «ヴォロシャンカ» の由来の説明はややこしい。一言で言えば、「ルーマニア人女」の意味。
 «ヴォロシャンカ» とは «ヴォロフの女» という意味。«ヴォロフ Волох» とは «ヴラフ» から音韻交替させてつくった言葉(意味は同じ)。«ヴラフ Влах, Vlah» とは、言わば «原ルーマニア人» のこと。ヴァラキアという国名もここから来ている。
 当時のモルドヴァ人を指して «ヴラフ» と呼ぶのはおかしいのだが、この時代のロシア人にバルカン半島に関する厳密な地理的・民族学的知見を求めても仕方あるまい。

▲ページのトップにもどる▲

Copyright © Подгорный (Podgornyy). Все права защищены с 7 11 2008 г.

ロシア学事始
ロシアの君主
リューリク家
人名録
系図
人名一覧
inserted by FC2 system