聖ドミートリイ・ユーリエヴィチ «クラースヌィイ»
Св. Дмитрий Юрьевич "Красный"
ウーグリチ公 князь Углицкий (1433-41)
生:?
没:1441.09.20
父:ズヴェニーゴロド公ユーリイ・ドミートリエヴィチ (モスクワ大公ドミートリイ・ドンスコーイ)
母:アナスタシーヤ (スモレンスク公ユーリイ・スヴャトスラーヴィチ)
結婚:?
子:?
第17世代。モノマーシチ(モスクワ系)。
ユーリエヴィチ兄弟の長幼の順は不明。ヴァシーリイ・コソーイが長兄であったことはほぼ間違いないだろうが、ふたりのドミートリイのうち、年長だったのがドミートリイ・シェミャーカかドミートリイ・クラースヌィイかがわからない。ただし史料によっては、シェミャーカを «ボリショーイ»(大きい)、クラースヌィイを «メニショーイ»(小さい)と呼んでいるものもある。ここではふたりのドミートリイを区別するため、それぞれシェミャーカ、赤公と呼び分ける。
また、ふたりのドミートリイにはどちらも1420年頃の生まれとする説があるが(あるいは両者を混同しているだけかもしれない)、すでに1434年から積極的に軍事行動に携わっていることからすると、もう少し生年は早かったのではないかと想像される。
1433年のヴァシーリイ2世の婚礼には、ヴァシーリイ・コソーイやドミートリイ・シェミャーカが参列したのに対して、ドミートリイ赤公は参列していない(父も欠席した)。また父や兄たちは1433年にモスクワ大公ヴァシーリイ2世に対して叛乱を起こし、モスクワを占領する。これにはドミートリイ赤公も名を連ねているが、記録に名前が出てくるという程度で、積極的にはかかわっていなかったようだ。
これはつまり、1433年にはドミートリイ赤公がまだガキだったからだろうか。
1434年、モスクワ大公位を奪取した父は、ニージュニイ・ノーヴゴロドに逃亡したヴァシーリイ2世討伐のため、ふたりのドミートリイ(シェミャーカと赤公)を派遣。しかしヴラディーミルまで来たところで、派遣軍は父の死の知らせを受け取った。
大公位はヴァシーリイ・コソーイが継いだ。しかしふたりのドミートリイは兄の大公位継承を認めず、ヴァシーリイ2世と講和した。あまつさえ共同でモスクワに侵攻。ヴァシーリイ2世の大公位奪回を支援した。これに対する褒章として、ヴァシーリイ2世からベジェツキイ・ヴェルフをもらう。
ドミートリイ赤公の分領についてはあまりはっきりしない。
1433年にウーグリチが与えられたという説もあり、これはこの年に死んだコンスタンティーン・ドミートリエヴィチを遺領を、モスクワ大公となった父から与えられたということなのだろう。他方でウーグリチは1434年にヴァシーリイ2世からドミートリイ・シェミャーカに与えられたとする説もある。
父の遺領ガーリチ=メールスキイについても、ドミートリイ赤公が相続したとする説がある一方で、これまたドミートリイ・シェミャーカが相続したとする説もある。父親がガーリチ公であった関係でふたりのドミートリイがともに(それで言えばヴァシーリイ・コソーイも)«ガーリチの公» と呼ばれていたので、実際にガーリチ=メールスキイを分領として支配したのが誰か、はっきりしないのだ。
1435年にも、ヴァシーリイ2世とともにヴァシーリイ・コソーイと戦う。
1437年にはドミートリイ・シェミャーカとともに、モスクワ軍を率いてウル=ムハンマドと戦う(敗北)。
父にも最も愛され、ヴァシーリイ2世からも信頼されたらしい。モスクワはアルハンゲリスキイ大聖堂に葬られた。なお没年は1440年という説もある。