リューリク家人名録

聖ドミートリイ・イヴァーノヴィチ «ドンスコーイ»

Св. Дмитрий Иванович "Донской"

モスクワ公 князь Московский (1359-89)
ヴラディーミル大公 великий князь Владимирский (1363-89)
ノーヴゴロド公 князь Новгородский (1363-89)

生:1350.10.12−モスクワ
没:1389.05.19 (享年38)−モスクワ

父:モスクワ公イヴァン2世赤公モスクワ公イヴァン1世・カリター
母:アレクサンドラ・イヴァーノヴナ

結婚:1366
  & エヴドキーヤ公女 1353-1407 (スーズダリ公ドミートリイ・コンスタンティーノヴィチ

子:

生没年分領結婚相手生没年その親・肩書き
エヴドキーヤ・ドミートリエヴナと
1ダニイール-1379
2ヴァシーリイ1371-1425モスクワソフィヤ1371-1453リトアニア大公ヴィタウタス
3ソフィヤ-1427フョードル・オーリゴヴィチ-1427リャザニ大公
4ユーリイ1374-1434ズヴェニーゴロドアナスタシーヤ-1422スモレンスク大公ユーリイ・スヴャトスラーヴィチ
5マリーヤ-1399レングヴェニス1355?-1431リトアニア大公アルギルダス
6アナスタシーヤイヴァン・フセヴォローディチ-1402ホルム公
7セミョーン-1379
8イヴァン1380-93
9アンドレイ1382-1432モジャイスクアグリッピナスタロドゥーブ公アレクサンドル・ミハイロヴィチ
10ピョートル1385-1428ドミートロフエフフロシーニヤ
11アンナ1387-スタロドゥーブ公パトリカストゥーロフ=ピンスク公ナリマンタス
12コンスタンティーン1389-1433ウーグリチ

第15世代。モノマーシチ(モスクワ系)。洗礼名ディミートリイ(=ドミートリイ)。

 ろくな教育を受けず、文字もまともに読めなかった(もっともこの時代には西欧でも文字の読める君主は少ない。文字の読み書きは聖職者の仕事で、君主の仕事は戦だから)。

 1359年、父が死去。当時モスクワ公領に公は、9歳のドミートリイ・イヴァーノヴィチを筆頭に、弟のズヴェニーゴロド公イヴァン小公(5歳)、従兄弟のセールプホフ公ヴラディーミル勇敢公(6歳)と、幼児しかいなかった。このためモスクワ公領の実権は、父の代からの重臣である府主教アレクシイ(1378年死去)が掌握する。
 この年、ドミートリイ・イヴァーノヴィチはアレクシイ等重臣に連れられてサライに赴いた。
 ヴラディーミル大公位は、すでに1328年以来モスクワ公によって独占されてきたが、まだ9歳の幼児ではキプチャク・ハーンの認可状を得ることは当然望み薄である。他方、トヴェーリ公ヴァシーリイ・ミハイロヴィチと甥のホルム公フセーヴォロド・アレクサンドロヴィチは相争っていてサライに赴く余裕がなく、ニージュニイ・ノーヴゴロド公アンドレイ・コンスタンティーノヴィチはドミートリイ・イヴァーノヴィチの権利を尊重して認可状を求めず、結局その弟のスーズダリ公ドミートリイ・コンスタンティーノヴィチが、ナウルーズ・ハーンによりヴラディーミル大公位の認可状を与えられた。
 1361年、モスクワに帰還。

 しかしモスクワのボヤーリンたちは、30年来自分たちの公が占めてきたヴラディーミル大公位を失うことをよしとせず、その奪還を模索。幸いしたのは、サライではこの当時内紛が激化して、ハーン位が安定していなかったことである。ナウルーズはすぐにハーン位を失い、キドル、ティムール、アブドゥラ、ムラドなどが相次いで擁立され、これに実力者ママイがからんで情勢は混乱を極めていた。
 1362年、ボヤーリンたちはムラドに接近し、かれから認可状を獲得。1363年、これを盾にモスクワ軍はヴラディーミルに侵攻。ドミートリイ・コンスタンティーノヴィチを破り、実力でヴラディーミル大公位を勝ち取った。
 しかしこの年、アブドゥラからもドミートリイ・イヴァーノヴィチの大公位を認める認可状が届き、モスクワのボヤーリンたちはこれを歓迎した。これがアブドゥラと対立するムラドを激怒させ、ムラドはベロオーゼロ公イヴァン・フョードロヴィチを遣わしてドミートリイ・コンスタンティーノヴィチヴラディーミル大公位の認可状を与えた。ドミートリイ・コンスタンティーノヴィチは改めてヴラディーミルへ。しかしわずか12日後にはモスクワ軍に再び追われ、スーズダリに逃亡。モスクワ軍はスーズダリをも攻囲し、ドミートリイ・コンスタンティーノヴィチを屈服させた。

 ドミートリイ・イヴァーノヴィチ(正確にはそのボヤーリンたち)は、一連の騒動でドミートリイ・コンスタンティーノヴィチを支持した諸公を次々に屈服させていく。
 甥のロストーフ=ウスレティンスキイ公アンドレイ・フョードロヴィチと対立してその領土を奪っていたロストーフ=ボリソグレーブスキイ公コンスタンティーン・ヴァシーリエヴィチをロストーフから追い、アンドレイ・フョードロヴィチを復位させて、ロストーフ系諸公に対する優位を確保。
 また、ガーリチ=メールスキイ公ドミートリイ・イヴァーノヴィチスタロドゥーブ公イヴァン・フョードロヴィチを追って、それぞれの領土ガーリチ=メールスキイとスタロドゥーブをモスクワに併合した。
 さらに1364年までに、ドミートロフ、コストロマー、ヴォロク、トルジョーク、そしてヴラディーミルなど、ヴラディーミル大公領のうち、トヴェーリ系、ロストーフ系、スーズダリ系を除く弱小の分領をことごとく併合。ベロオーゼロ公(ロストーフ系)などにも宗主権を及ぼす。
 ドミートリイ・コンスタンティーノヴィチはすでにモスクワに屈服しており(この後終生ドミートリイ・イヴァーノヴィチとの友好関係を維持)、その兄のアンドレイ・コンスタンティーノヴィチもモスクワに友好的で、トヴェーリ公ヴァシーリイ・ミハイロヴィチも先代以来モスクワに従属的であった。こうしてドミートリイ・イヴァーノヴィチ(実質はそれを支えるモスクワのボヤーリン)は、一連の騒動を通じて、逆にモスクワの覇権を北東ルーシに確立した。

 1364年頃から、北東ルーシで再び疫病(かつての黒死病)の大流行が始まる。前回の流行(1352-53)では諸公の被害は伯父セミョーン傲慢公と叔父アンドレイ・イヴァーノヴィチぐらいで済んだが、今回は実弟のズヴェニーゴロド公イヴァン小公、トヴェーリでもホルム公フセーヴォロド・アレクサンドロヴィチ兄弟、ロストーフでもボリソグレーブスキイ公コンスタンティーン・ヴァシーリエヴィチと息子たちなど、多くの被害が出た。
 1365年、ニージュニイ・ノーヴゴロド公アンドレイ・コンスタンティーノヴィチも疫病に倒れた。
 ニージュニイ・ノーヴゴロドの相続を巡って、スーズダリ公ドミートリイ・コンスタンティーノヴィチゴロデーツ公ボリース・コンスタンティーノヴィチが争う。ドミートリイ・イヴァーノヴィチはドミートリイ・コンスタンティーノヴィチを支援し、ニージュニイ・ノーヴゴロドをドミートリイ・コンスタンティーノヴィチに与えた。
 この関係をさらに強固なものにしようと、1366年にドミートリイ・イヴァーノヴィチはドミートリイ・コンスタンティーノヴィチの娘と結婚する。

 この時期までの諸政策は、当然ドミートリイ・イヴァーノヴィチ個人のイニシャティヴによるものではなく、周囲のボヤーリンたちによるものである。にもかかわらず、そのことごとくがドミートリイ・イヴァーノヴィチ個人、ひいてはモスクワ公(領)の権威・勢力拡大のためのものであり、これ以降、ドミートリイ・イヴァーノヴィチ成人後の諸政策と区別がつかない。
 このことは、ドミートリイ・イヴァーノヴィチ成人後の諸政策もやはりドミートリイ・イヴァーノヴィチ個人のイニシャティヴによるものではなく、周囲のボヤーリンたちによるものではないかとの疑問を抱かせる。実際、年代記は、ドミートリイ・イヴァーノヴィチはすべてに関してボヤーリンに相談し、その意見を聞いたと記している。
 ドミートリイ・イヴァーノヴィチは、青少年期に府主教アレクシイの指導を受け、精神的に大きな影響を受けたとされる。アレクシイはそもそもモスクワ公のボヤーリンの息子であり(弟たちもモスクワ公のボヤーリンとなっている)、出自の上からも他のボヤーリンたちと立場を同じくしていたが、国政を預かる者として、人の話を聞かない君主よりは聞いてくれる君主の方がいいのは当然だろう。
 軍事においても、ドミートリイ・イヴァーノヴィチは、従兄弟のヴラディーミル勇敢公ドミートリイ・ボブローク=ヴォルィンスキイ(義兄)といった有能な軍司令官に、治世の軍事的成功を負っている。その意味でも、モスクワ公領を動かしたのはドミートリイ・イヴァーノヴィチ本人よりも周辺の人々であったと言っていいだろう。

 1365年、モスクワで大火事が発生。クレムリンや商業地区、さらにその周辺の宅地などがわずか2時間ですべて焼き払われた。これは当時まだ木造建築が主流だったためである。南ルーシ、特にガーリチ=ヴォルィニでは12世紀後半には石造建築が導入されていたが、モスクワでは2世紀遅れていた。焼け落ちたクレムリンに替えて、ドミートリイ・イヴァーノヴィチは1367年、北東ルーシで最初の石造りのクレムリンを建設した。

 ホルム公フセーヴォロド・アレクサンドロヴィチが疫病に倒れた後も、その弟のミクーリン公ミハイール・アレクサンドロヴィチトヴェーリ公ヴァシーリイ・ミハイロヴィチと敵対し、トヴェーリの内紛は続いていた。ミハイール・アレクサンドロヴィチは亡兄の政策を引き継いで義兄のリトアニア大公アルギルダスと同盟。他方でヴァシーリイ・ミハイロヴィチは以前からモスクワ公に従順で、ドミートリイ・イヴァーノヴィチもこれを支援した。
 1367年、ドミートリイ・イヴァーノヴィチは軍を派遣し、ヴァシーリイ・ミハイロヴィチを支援してトヴェーリに侵攻。ミハイール・アレクサンドロヴィチはリトアニアに逃亡し、その支援を得て帰還。両者は和解したものの、トヴェーリにおける実権はミハイール・アレクサンドロヴィチに移った(ヴァシーリイ・ミハイロヴィチは1368年に死去し、ミハイール・アレクサンドロヴィチが正式にトヴェーリ公となった)。

 ミハイール・アレクサンドロヴィチトヴェーリ公位を巡ってヴァシーリイ・ミハイロヴィチと争っていたほか、ドロゴブージュ公領の相続を巡ってエレメイ・コンスタンティーノヴィチとも対立していた。1368年、ドミートリイ・イヴァーノヴィチは府主教アレクシイとともに、問題の解決を図ってミハイール・アレクサンドロヴィチをモスクワに召喚した。一旦はミハイール・アレクサンドロヴィチを拘束するものの、ハーンの使節が介入し、すぐに釈放。
 トヴェーリに帰還したミハイール・アレクサンドロヴィチは、エレメイ・コンスタンティーノヴィチにドロゴブージュを割譲してこちらの問題を片づけると、アルギルダスケーストゥティスヴィタウタス率いるリトアニア軍、さらにはスモレンスク軍をも率いてモスクワに侵攻。ドミートリイ・イヴァーノヴィチは前年に建設したばかりのクレムリンに立てこもって持ちこたえるが、モスクワは略奪された。
 報復としてドミートリイ・イヴァーノヴィチは、1369年、まずスモレンスクに軍を派遣。続いて1370年には自らトヴェーリに侵攻し、ミハイール・アレクサンドロヴィチと戦う。ミハイール・アレクサンドロヴィチはリトアニアに逃亡。アルギルダスは、ケーストゥティスミハイール・アレクサンドロヴィチスモレンスク大公スヴャトスラーフ・イヴァーノヴィチを引き連れて再度モスクワに侵攻。モスクワ側にはリャザニ軍、プロンスク軍が救援に駆け付け、ドミートリイ・イヴァーノヴィチはアルギルダスと停戦した。

 1371年、ミハイール・アレクサンドロヴィチはサライに赴き、ヴラディーミル大公位を認めるメフメト=スルターンの認可状を獲得し、ハーンの使節を連れて帰還。
 しかしヴラディーミル市民はミハイール・アレクサンドロヴィチの大公位を認めず、ドミートリイ・イヴァーノヴィチはハーンの使節を買収し、自らサライに赴いて実力者ママイの支持を取り付けた。のみならず、当時サライに抑留されていたミハイール・アレクサンドロヴィチの息子イヴァンを引き取り、モスクワに連れ帰った(その後身代金と引き換えに釈放)。

 帰国したドミートリイ・イヴァーノヴィチは、領土を巡る争いから、ドミートリイ・ボブローク=ヴォルィンスキイを派遣してリャザニ大公オレーグ・イヴァーノヴィチを破り、リャザニをプロンスク公ヴラディーミル・ヤロスラーヴィチに与えた(翌年オレーグ・イヴァーノヴィチが奪還)。

 1372年、ミハイール・アレクサンドロヴィチが、モスクワ領のドミートロフやトルジョーク、ウーグリチなどを攻略。
 1373年には、みたびアルギルダスがモスクワに侵攻。しかし今回はモスクワを攻囲される前にドミートリイ・イヴァーノヴィチがこれを迎え撃ち、撤退させた。

 1374年、トィーシャツキイを務めていたヴァシーリイ・ヴェリヤミーノフが死去。«トィーシャツキイ» とは、言葉の本来の意味からすると、兵士千人(トィーシャチャ)を率いる司令官である。しかし時代とともに千という数字は意味を失い、各都市において正規軍(貴族)の補助的位置づけで編成される «民間防衛隊» の司令官を意味するようになり、公(ノーヴゴロドでは市長)を補佐する高位のボヤーリンによって事実上世襲されていた。
 モスクワにおいては徐々に新たなトィーシャツキイの任命は行われなくなっており、ドミートリイ・イヴァーノヴィチは、ヴァシーリイ・ヴェリヤミーノフが死んでもその子イヴァン・ヴェリヤミーノフをトィーシャツキイに任じなかった。これによりモスクワにトィーシャツキイはいなくなり、以後は «ヴォエヴォーダ» (正規軍の司令官)にその職務が委ねられた(のちにヴォエヴォーダも階級制度を創設したピョートル大帝によって廃止される)。これはおそらく、旧い制度を整備するとともに、公の権力を強化する目的もあっただろう。さらには、次第に権勢を高めていたヴェリヤミーノフ一族の弱体化を図る目的もあったものと思われる。
 自分がトィーシャツキイ職を継ぐものと思っていたイヴァン・ヴェリヤミーノフはこの措置に憤り、トヴェーリに亡命。ミハイール・アレクサンドロヴィチを動かして、こうしてモスクワとトヴェーリの対立が再燃した。

 1375年、ミハイール・アレクサンドロヴィチは改めてサライからハーンの認可状を獲得すると同時に、アルギルダスにも支援を要請。しかしタタール軍もリトアニア軍も来なかった。
 他方でドミートリイ・イヴァーノヴィチのもとには、ドミートリイ & ボリースのスーズダリ兄弟、ヴラディーミル勇敢公アンドレイ & ヴァシーリイ & アレクサンドルのロストーフ諸公、スモレンスク大公スヴャトスラーフ・イヴァーノヴィチロマーン・ヴァシーリエヴィチを含むヤロスラーヴリ公ふたり、ベロオーゼロ公フョードル・ロマーノヴィチカーシン公ヴァシーリイ・ミハイロヴィチモローガ公フョードル・ミハイロヴィチスタロドゥーブ公アンドレイ・フョードロヴィチブリャンスク公ノヴォシーリ公ロマーン・セミョーノヴィチオボレーンスク公セミョーン & イヴァン兄弟、トルーサ公が結集。ノーヴゴロド軍までこれに加わった。
 諸公連合軍はヴォロコラムスクからトヴェーリに侵攻し、諸都市を攻略。トヴェーリに立てこもったミハイール・アレクサンドロヴィチも、救援に来たリトアニア軍が一戦も交えずに撤退したとの報せに、降伏した。
 ミハイール・アレクサンドロヴィチはドミートリイ・イヴァーノヴィチの上位権を認め、その要求のままに従軍することを承諾。同時に、代々トヴェーリ大公と対立してきたカーシン公のトヴェーリからの独立を認めた。

 このトヴェーリ遠征は、モスクワのトヴェーリに対する優位を決定的にしたのみならず、ルーシ諸公にモスクワ大公の権威を認めさせるものでもあった。これがキプチャク・ハーンにとって脅威でないわけはない。ましてやミハイール・アレクサンドロヴィチに与えた認可状がルーシ諸公によって無視されたという事実は、ハーンの権威よりもモスクワ大公の権威の方が実効性があることを意味する。
 これ以降、それまでサライに最も従順だったモスクワ大公とハーンとの関係は公然たる敵対関係に移行した。これはひとつには、これまで反タタール勢力の旗頭であったトヴェーリ公ミハイール・アレクサンドロヴィチ)がハーンの権威を借りてドミートリイ・イヴァーノヴィチに対抗していたことも理由として挙げられるだろう。
 手始めに、サライで実権を握るママイは、ニージュニイ・ノーヴゴロドに軍を派遣してこれを蹂躙。ドミートリイ・イヴァーノヴィチに協力した懲罰のつもりだったのだろうか。

 ヴォルガ・ブルガールでは数年前からハーン位を巡る内紛が続いていたが、1376年、ドミートリイ・イヴァーノヴィチはニージュニイ・ノーヴゴロド公ドミートリイ・コンスタンティーノヴィチに協力してドミートリイ・ボブローク=ヴォルィンスキイをヴォルガ・ブルガールに派遣し、アサン・ハーンとアフメト・スルターンを屈服させる。

 1375年、いかなる事情があったのか、まだ府主教アレクシイが存命中であったにもかかわらず、コンスタンティノープルは新たにキプリアーンを «キエフ、ルーシ、リトアニアの府主教» に叙任する(ちなみにキプリアーンはブルガリア人)。
 ドミートリイ・イヴァーノヴィチは、キプリアーンのモスクワ入りすら阻止。キプリアーンに破門されるが、意に介さなかった。
 1378年、アレクシイが死去。聖セールギイ・ラードネジュスキイはスーズダリ主教ディオニーシイの府主教就任を支持するが、ドミートリイ・イヴァーノヴィチはスパースキイ修道院長ミハイールを推し、モスクワに主教会議を招集してミハイールを府主教に選出させた。しかしコンスタンティノープル総主教の承認を得るためにコンスタンティノープルに赴いたミハイールは、1379年に辿りつくことなく死去。
 自らの候補者を失ったドミートリイ・イヴァーノヴィチは、キプリアーンを府主教として受諾。キエフに退避していたキプリアーンは、1381年にようやくモスクワ入りを果たした。

 1377年、ハーンの息子アラブ・シャーがリャザニへ、続いてニージュニイ・ノーヴゴロドに侵攻。ドミートリイ・イヴァーノヴィチは援軍を派遣するが、モスクワ・ニジェゴロド連合軍は敗北。ニージュニイ・ノーヴゴロドは攻略され、ドミートリイ・コンスタンティーノヴィチはスーズダリに逃亡した。
 1378年にもタタール軍がリャザニとニージュニイ・ノーヴゴロドに侵攻。今回はタタール軍はその後転進してモスクワへ。ドミートリイ・イヴァーノヴィチはドミートリイ・ボブロク=ヴォルィンスキイを派遣してリャザニで迎え撃ち、プロンスク公ダニイール(誰それ?)とともにタタール軍を撃退した。

 1377年、リトアニア大公アルギルダスが死去。後を継いだのは息子ヨガイラだったが、かれには異母兄がいた。中でもポーロツク公アンドレイ・オリゲルドヴィチブリャンスク公ドミートリイ・オリゲルドヴィチヨガイラの大公位継承に反発し、ドミートリイ・イヴァーノヴィチと手を結ぶ。
 1379年、ドミートリイ・イヴァーノヴィチはヴラディーミル勇敢公ドミートリイ・ボブローク=ヴォルィンスキイを派遣し、リトアニア領ルーシ(セーヴェルスカヤ・ゼムリャー)に侵攻。トルブチェフスク、スタロドゥーブなどを占領させた。この時ブリャンスク公ドミートリイ・オリゲルドヴィチは自領が蹂躙されているにもかかわらずモスクワ軍に抵抗せず、それどころか撤退するモスクワ軍とともにモスクワへ。ドミートリイ・イヴァーノヴィチはかれにペレヤスラーヴリ=ザレスキイを与えた。またポーロツクを失ったアンドレイ・オリゲルドヴィチにはプスコーフを与えている。

 当時、サライにおいてはママイの権勢にも陰りが見えていた。自身の権力維持のためにも、ドミートリイ・イヴァーノヴィチに対する勝利を必要としたママイは、ジェノヴァ人、チェルケース人等も雇い入れ、1380年、10万を超えるとも言われる大軍を率いてヴォルガを渡河。
 さらにリトアニア大公ヨガイラもママイと同盟を結ぶ。すでにヨガイラリャザニ大公オレーグ・イヴァーノヴィチと結んでおり、こうしてモスクワ包囲網が形成された。
 スーズダリ諸公は «中立» の立場を採るが、ホルム公イヴァン・フセヴォローディチ(トヴェーリ軍を率いた)、ロストーフ公アンドレイ・フョードロヴィチベロオーゼロ公フョードルイヴァンの父子、スタロドゥーブ公アンドレイ・フョードロヴィチヤロスラーヴリ公ヴァシーリイ & ロマーンのヴァシーリエヴィチ兄弟、モローガ公フョードル & イヴァン兄弟、スモレンスク大公スヴャトスラーフ・イヴァーノヴィチの派遣したヴャーゼムスキイ公ブリャンスク公ロマーン・ミハイロヴィチエレーツ公フョードル・イヴァーノヴィチオボレーンスク公セミョーン・コンスタンティーノヴィチの兄弟、フョードルとムスティスラーフのトルーサ公兄弟、さらにはアンドレイドミートリイのオリゲルドヴィチ兄弟が従軍。軍勢は、ルーシ史上かつてない15万人に達したと言う。なお、この軍にはノーヴゴロド軍、トヴェーリ軍、スモレンスク軍は加わっていなかったとも言われている。
 ドン河畔のクリコーヴォの野(現リペツク州エレーツ近郊)で両軍が激突した時、リトアニア軍もリャザニ軍もまだタタール軍には合流していなかった(ヨガイラは近郊で傍観したとする説もある)。それでも戦力は拮抗し、戦いの趨勢はどちらに転ぶかわからなかった。しかし最後の最後にヴラディーミル勇敢公ドミートリイ・ボブローク=ヴォルィンスキイが温存した戦力を投入し、勝敗の行方を決定づけた。
 この勝利の功績を讃え、ドミートリイ・イヴァーノヴィチは «ドンスコーイ»(「ドン河の」という意味)と呼ばれるようになった。

 1380年、クリコーヴォの戦いでベロオーゼロ公フョードル・ロマーノヴィチが死去。ドミートリイ・イヴァーノヴィチは遺領を併合した。
 しかしクリコーヴォの戦いでは、ルーシ側にも多大の損害が生じ、そのためリャザニやリトアニアに報復する余裕はなかった。アンドレイドミートリイのオリゲルドヴィチ兄弟を支援することもできず、幸いにもヨガイラが叔父ケーストゥティスと権力闘争を始めたので、ドミートリイ・イヴァーノヴィチはリトアニア情勢は無視した(のちにオリゲルドヴィチ兄弟はリトアニアに帰属している)。他方、クリコーヴォの戦いの直後にオレーグ・イヴァーノヴィチがリトアニアに逃亡したため一旦はリャザニを占領するものの、結局はオレーグ・イヴァーノヴィチと講和してリャザニを返還している。
 それと言うのも、キプチャク・ハーン軍の復讐を警戒したからである。
 ママイは再起を図ったものの、トクタミシュに追われてクリミアに逃亡(当地で客死)。権力を握ったトクタミシュ・ハーンは、1381年、ドミートリイ・イヴァーノヴィチをサライに召喚。ドミートリイ・イヴァーノヴィチがこれを拒否すると、1382年、ルーシに侵攻する。ドミートリイ・イヴァーノヴィチが軍を集めるためにペレヤスラーヴリやコストロマーを転々としている間に(モスクワだけでは十分な兵が集まらなかった)、モスクワは陥落。ヴラディーミル勇敢公がヴォロク近郊でトクタミシュ軍を破ってモスクワを解放するが、モスクワはクリコーヴォの戦いに続いて大きな被害を受けた。

ドミートリイ・イヴァーノヴィチが1374年以来トィーシャツキイを任命していなかったため、この時モスクワ防衛に立ち上がった市民を指揮する人間がいなかった。このため市民はオステイ・アンドレーエヴィチなる公を招いたとされる。年代記はかれをアルギルダスの孫としているが、だとするとアンドレイ・オリゲルドヴィチの息子だろうか。どちらにしても、«オステイ» などという名はロシア語にもリトアニア語にもない(はず)。ちなみに、かれはモスクワ陥落に際してタタールに殺された。

 トクタミシュのモスクワ攻略に際して、府主教キプリアーンは大公妃エヴドキーヤとともにトヴェーリに避難した。危急の際にモスクワを見捨てたとして、ドミートリイ・イヴァーノヴィチはキプリアーンをキエフに追放。代わりにペレヤスラーヴリのゴリツキイ修道院長ピーメンを府主教に擁立した。ちなみに、ピーメンが死んだ後は府主教座は空位となったが、ドミートリイ・イヴァーノヴィチはキプリアーンを呼び戻そうとはしなかった。

 モスクワが疲弊し、トクタミシュとの関係も最悪の状態にあると見て、トヴェーリ大公ミハイール・アレクサンドロヴィチがまたしても策動を始めるが、ドミートリイ・イヴァーノヴィチも1383年に長男ヴァシーリイをサライに派遣しこれを妨害させた。トクタミシュはミハイール・アレクサンドロヴィチを相手にせず、ドミートリイ・イヴァーノヴィチに使節を派遣し、従来の友好関係再開を求めた。結局ドミートリイ・イヴァーノヴィチは、長男ヴァシーリイがサライにとどめ置かれていたこともあってか、1384年から貢納の義務を再開させることを余儀なくされた(ヴァシーリイは1385年に逃亡し、1387年にリトアニア経由で帰国)。

 1382年、モスクワ軍は撤退するトクタミシュ軍を追ってリャザニを蹂躙した。ドミートリイ・イヴァーノヴィチとは講和を結んでいたリャザニ大公オレーグ・イヴァーノヴィチだったが、1385年にコロームナを攻略する。モスクワ軍はリャザニ軍に敗北を喫し、ドミートリイ・イヴァーノヴィチは講和を余儀なくされた。
 1387年、娘ソフィヤをオレーグ・イヴァーノヴィチの息子と結婚させ、ドミートリイ・イヴァーノヴィチとオレーグ・イヴァーノヴィチの対立は終わった。

 ひとつにはハーンに対する貢納の負担を軽減する目的もあってか、1386年にドミートリイ・イヴァーノヴィチはノーヴゴロドに侵攻。1387年に講和を結び、多大の賠償金と毎年の貢納金を義務付けた。

 リャザニとの抗争に終止符を打ち、ノーヴゴロドを屈服させた背景には、ひとつには、1386年にリトアニア大公ヨガイラがカトリックに改宗し、ポーランド王ヴワディスワフ2世となってリトアニアとポーランドの同君連合が成立し、大きな脅威となったこともあるだろう。
 実際、まさにその1386年、リトアニア軍がスモレンスクに侵攻。スモレンスク大公スヴャトスラーフ・イヴァーノヴィチは1370年代後半からはドミートリイ・イヴァーノヴィチとの協調路線に舵を切っていたが、この時戦死。スモレンスクは事実上リトアニアの属国となった。モスクワは、言わばリトアニアと «国境をじかに接する» ことになったのである。

 1389年の死まで、徐々に南方のリトアニア領を侵食。正確にいつかは不明だが、カルーガ地方を奪う。

 まだ若くして病に倒れた(ただし病名は不明)。その死に際して、ドミートリイ・イヴァーノヴィチは遺領を諸子に分割したが、注目すべきはヴラディーミル大公位を長男に与えている点である。これまでモスクワ公トヴェーリ公といった分領公の地位の継承にすらハーンの認可状が必要とされていたが、ヴラディーミル大公位にいたってはハーンが好き勝手に任命していた(もっとも候補者は自薦に限られていたから、文字通り「好き勝手に」とはいかなかったが)。その意味で、ヴラディーミル大公位をどうするかはハーンの専権事項であった。ドミートリイ・イヴァーノヴィチは、このハーンの権利を侵害して、それこそ自分勝手に息子に相続させることを決めてしまったのである。
 もうひとつ注目すべきは、これまでの歴代モスクワ公はその領土を諸子にほぼ均等に分割してきたのに、ドミートリイ・イヴァーノヴィチがその伝統を破って長男に領土のほとんどを譲った点である。言うまでもなく、次男以下はモスクワ公の分領公であり、潜在的にはモスクワ公の覇権に対する脅威である。その領土を小さくしたということは、モスクワ公に対する脅威を小さくし、かつ分領公をモスクワ公に従属させることで中央集権化を推進する意図があったと言える。これ以降、代を経るにつれて分領公はますます従属的立場を強めていき、ついにイヴァン雷帝の時代に分領公は一掃されることになる。

 クレムリンのアルハンゲリスキイ大聖堂に葬られる。
 1988年、ルーシ建国1000年を記念して、正教会により聖者に列せられた。

 なお、厳密には不明だが、おそらくドミートリイ・イヴァーノヴィチの時代に、モスクワで初めて硬貨の鋳造が行われた。
 もともとルーシでは、キエフ大公の権威が下落した12世紀以降、硬貨の鋳造は徐々に廃れていっていた。硬貨を鋳造する権利を持つキエフ大公の地位が不安定だったことに加えて、硬貨の流通を要求する広域経済圏が解体していったこと、さらにはもともとガーリチを除いてこれといった銀山を持たなかったルーシに外国の銀の輸入が徐々に滞っていったことも理由であろう。以来、旧い硬貨や外国の硬貨が流通していたところもあるが(独自に硬貨を鋳造した公もいたが)、北東ルーシでは基本的に «商品貨幣» (家畜や穀物など、商品そのものを貨幣として利用する)が一般的となった。
 ドミートリイ・イヴァーノヴィチ(あるいはその前後)にモスクワで硬貨の鋳造が始められたということは、銀を産出する諸外国との交易が活発になったことを示しているのだろうが、やはりそれ以上に、モスクワ公の権威の上昇を示していると言えるだろう(あるいは逆に、権威を誇示しようと硬貨鋳造を行ったか)。
 ちなみにこうして鋳造された硬貨のひとつが «デンガ» と呼ばれ、それがこんにちのロシア語 деньги (お金)となった。さらにちなみに、この頃はルーブリも硬貨の一種であり、貨幣単位としてはグリーヴナが使われていたらしい。

 添え名の «ドンスコーイ» は「ドン(河)の」という意味で、上述のようにドン河畔でおこなわれたクリコーヴォの戦いの勝利を讃えてつけられた。

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最終更新日 17 08 2012

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