ボリース・ダニイーロヴィチ
Борис Даниилович
コストロマー公 князь Костромский (1304)
ニージュニイ・ノーヴゴロド公 князь Нижегородский (1311-)
生:?
没:1320.05.30
父:モスクワ公ダニイール・アレクサンドロヴィチ (ヴラディーミル大公アレクサンドル・ネフスキイ)
母:?
結婚:?
子:?
第13世代。モノマーシチ(モスクワ系)。洗礼名ゲオルギイ(=ユーリイ)。
1304年、伯父のヴラディーミル大公アンドレイ・アレクサンドロヴィチが死去。ボリース・ダニイーロヴィチは兄モスクワ公ユーリイ・ダニイーロヴィチにより、その遺領コストロマーに派遣される。しかし、当時兄と対立していたトヴェーリ軍がコストロマーに侵攻し、ボリース・ダニイーロヴィチはその捕虜となる。一旦はトヴェーリに連行されるが、やがて釈放され、1305年にはモスクワに戻った。
1307年、ユーリイ・ダニイーロヴィチと喧嘩し、ボリース・ダニイーロヴィチは次兄アレクサンドル・ダニイーロヴィチとともにトヴェーリ公ミハイール・ヤロスラーヴィチのもとに身を寄せる。しかしやがて和解したようだ。
1311年、ユーリイ・ダニイーロヴィチがトヴェーリからゴロデーツ公領を奪い、これをボリース・ダニイーロヴィチに与えた。
ある説によれば、ゴロデーツ公ミハイール・アンドレーエヴィチ(アンドレイ・アレクサンドロヴィチの子)の死に際してユーリイ・ダニイーロヴィチがその遺領を併合し、ボリース・ダニイーロヴィチに与えたとされる。ボリース・ダニイーロヴィチはゴロデーツ公領の主都をゴロデーツからニージュニイ・ノーヴゴロドに移したらしい。
しかしミハイール・アンドレーエヴィチについてはよくわかっていないし(1311年に死んだかどうか、ゴロデーツを分領としていたかどうかも)、アンドレイ・アレクサンドロヴィチ死後ゴロデーツがどうなっていたかも明確ではない(ヴラディーミル大公位を継いだミハイール・ヤロスラーヴィチに併合されてトヴェーリ領になっていたとする説もある)。
1317年、ユーリイ・ダニイーロヴィチがタタール軍を率いてミハイール・ヤロスラーヴィチと戦った際には、ボリース・ダニイーロヴィチもモスクワ軍に従軍していた。敗北に際してはトヴェーリ軍の捕虜となっている。