リューリク家人名録

アンナ・アレクセーエヴナ・コルトフスカヤ

Анна Алексеевна Колтовская

ツァリーツァ царица всея Руси (1572-74?)

生:?
没:1626.01.05−ティフヴィン

父:アレクセイ・コルトフスキイ
母:?

結婚:1572−モスクワ
  & ツァーリ・イヴァン4世雷帝 1530-84

子:なし

イヴァン雷帝の4人目の妃。

 1572年、アンナ・コルトフスカヤはイヴァン雷帝と結婚。その4人目の妃となる。
 正教会は結婚は3度までしか認めていなかったため、イヴァン雷帝とアンナ・コルトフスカヤの結婚は教会法違反となる。このためイヴァン雷帝は、結婚後わずか15日で死んだ(しかも結婚時点ですでに重態だった)マルファ・ソバーキナとの結婚の無効を主張し、無理を言って正教会に認めさせた。

 アンナ・コルトフスカヤは、イヴァン雷帝に大きな影響を与えたと言われる。彼女がツァリーツァであった1年間に、オプリーチニクの指導層がほぼ全滅しており、最終的にオプリーチニナ制度が廃止されている。これが彼女の影響力によるものだとされることがある。と言うのも、アンナ・コルトフスカヤは、イヴァン雷帝と結婚する以前に大貴族と婚約していたが、この婚約者をオプリーチニクに殺されていた。ゆえにイヴァン雷帝を動かし、婚約者の仇をうったというわけである。
 なお、この婚約者はヴォロトィンスキイ公とかヴャーゼムスキイ公とか言われるが、ヴォロトィンスキイ公家にはそれらしき人物は存在しない。この話は、アンナ・コルトフスカヤがツァリーツァであった時代にオプリーチニクに大打撃が与えられたことからつくり上げられたものである可能性も否定できない。

 結婚以前のアンナ・コルトフスカヤについては一切不明。諸説あるが、どれも確定的なものではない。
 出自があまりに低すぎて、イヴァン雷帝は結婚後も彼女を大貴族たちに紹介することすらできなかったと実しやかに語る文献もある。ただし、もし上述の婚約者の話が事実であるならば、アンナ・コルトフスカヤの出自がそれほど低かったとは考えづらい。
 そもそもイヴァン雷帝がアンナ・コルトフスカヤを妃に選んだ経緯についても、«花嫁コンテスト» によるものであるとする文献がある。すなわち、マルファ・ソバーキナが妃に選ばれた1571年の花嫁コンテストで、最終選考に残りながらも選にもれたのがアンナ・コルトフスカヤだとする。
 父親は勤務貴族(ドヴォリャニーン)だとする文献もある。多くの文献がアンナ・コルトフスカヤを、マルファ・ソバーキナと同じく、イヴァン雷帝の寵臣マリュータ・スクラートフの血縁だとしているので、その他の状況証拠もあわせて考えてみると、やはりアンナ・コルトフスカヤは貴族の出であったと考える方がしっくりくる。

 アンナ・コルトフスカヤは1574年、修道女となった(修道名ダーリヤ)。彼女の «失寵» の原因や状況はよくわからない。しかしイヴァン雷帝は1573年11月にはマリーヤ・ドルゴルーカヤと «結婚» しているので、アンナ・コルトフスカヤはそれ以前に修道院に押し込められていたのだろう。

 その後、アンナ・コルトフスカヤはティフヴィンのヴヴェデーンヌィイ修道院で修道女ダーリヤとして余生を送った。1586年にはフョードル1世からベロオーゼロ郡に、1604年にはボリース・ゴドゥノーフからティフヴィン郡に土地をもらっている。

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最終更新日 15 02 2012

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