アンドレイ・イヴァーノヴィチ
Андрей Иванович
スターリツァ公 князь Старицкий (1505-)
生:1490.08.05
没:1536.12.10/1537.12.11−モスクワ
父:モスクワ大公イヴァン3世大帝 (モスクワ大公ヴァシーリイ2世盲目公)
母:ソフィヤ・パレオローグ (モレア僭主トマス・パライオロゴス)
結婚:1530
& エヴフロシーニヤ公女 -1569 (アンドレイ・フョードロヴィチ・ホヴァンスキイ公)
子:
名 | 生没年 | 分領 | 結婚相手 | 生没年 | その親・肩書き | |
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エヴフロシーニヤ・アンドレーエヴナと | ||||||
1 | ヴラディーミル | 1533-69 | スターリツァ | エヴドキーヤ | アレクサンドル・ナゴーイ | |
エヴドキーヤ | -1569 | ロマーン・オドーエフスキイ公 |
第19世代。モノマーシチ(モスクワ系)。イヴァン3世の六男・末男(ソフィヤ・パレオローグの五男)。
1505年、父が死去。遺言で、ヴェレヤー、ヴィーシュゴロド、スターリツァ等を分領としてもらう。
リューリク一族の中で唯一残った分領の支配者、とはよく言われるが、実際は必ずしもそうは言えない(«分領公» と «勤務公» の区別が必ずしも明確ではないのではっきりしない部分がある)。
兄のモスクワ大公ヴァシーリイ3世には、1530年まで跡継ぎの男子が生まれなかった。このためヴァシーリイ3世は、弟たちに結婚を許さなかった。アンドレイ・イヴァーノヴィチは、結局イヴァン4世誕生の後になって初めて結婚した。
1510年、ヴァシーリイ3世とともに、併合したプスコーフに入城。1514年に兄がスモレンスクに遠征すると、モスクワの防衛を任される。
このように兄とアンドレイ・イヴァーノヴィチとの仲は良かったと言われる。
1533年、兄が死去。未亡人エレーナ・グリンスカヤが実権を握る。
エレーナ・グリンスカヤは、ライバルと見たのか、ヴァシーリイ3世の弟でアンドレイ・イヴァーノヴィチの兄ユーリイ・イヴァーノヴィチを投獄。他方でヴァシーリイ3世と特に仲の良かったアンドレイ・イヴァーノヴィチは、当初はモスクワで平和裏に暮らしていた。
しかしエレーナ・グリンスカヤの強権的な政治に反発したのか、はたまた兄の存命中は抑えられていた欲望が表面化したのか、兄の遺領の分配を要求してエレーナ・グリンスカヤと対立。モスクワを去ってスターリツァに移る。
一度はモスクワに赴いてエレーナ・グリンスカヤと交渉したが、埒が明かずに再びスターリツァへ。やがてその周囲には反エレーナ派が結集した。
1536年、エレーナ・グリンスカヤが軍を差し向けると、アンドレイ・イヴァーノヴィチはノーヴゴロドに逃亡。エレーナ・グリンスカヤはこちらに寵臣イヴァン・オフチーナ=テレプニョーフ=オボレーンスキイ公を派遣する。アンドレイ・イヴァーノヴィチとオボレーンスキイ公の交渉で、アンドレイ・イヴァーノヴィチはモスクワへの出頭を承諾。
しかしアンドレイ・イヴァーノヴィチがモスクワに到着すると、エレーナ・グリンスカヤは言を違えてアンドレイ・イヴァーノヴィチを投獄。妻子や、かれに仕えるボヤーレたちも捕まえた。
獄死。
クレムリンのアルハンゲリスキイ大聖堂に葬られた。