アファナーシイ・ダニイーロヴィチ
Афанасий Даниилович
ノーヴゴロド公 князь Новгородский (1314-15、19-22)
生:?
没:1322
父:モスクワ公ダニイール・アレクサンドロヴィチ (ヴラディーミル大公アレクサンドル・ネフスキイ)
母:?
結婚:
& アンナ
子:?
第13世代。モノマーシチ(モスクワ系)。
生年は不明。ダニイール・アレクサンドロヴィチの末男と考えられており、兄たちが1280年代の生まれと思われるので、アファナーシイ・ダニイーロヴィチは1280年代末の生まれだろうか。
父の死んだ1303年にはまだ若年(幼年?)だったろうが、成年に達した後も分領を与えられた形跡は見られない。たまたま記録からもれただけとも考えられるが、当時のモスクワ公領はやたらに分割できるほど大きくなかったから、そもそも分領を与えられていなかったのかもしれない。
1315年、ウズベク・ハーンに呼び出された兄モスクワ公ユーリイ・ダニイーロヴィチは、サライに赴くにあたってアファナーシイ・ダニイーロヴィチを自身の代理としてノーヴゴロドに派遣する。
しかしユーリイ・ダニイーロヴィチの不在を衝いてトヴェーリ公ミハイール・ヤロスラーヴィチがノーヴゴロドに侵攻。アファナーシイ・ダニイーロヴィチはこれを迎え撃つが、敗北。講和を結ぶが、ミハイール・ヤロスラーヴィチの裏切りで捕虜に。トヴェーリに連行される。
1319年、ミハイール・ヤロスラーヴィチの死で、アファナーシイ・ダニイーロヴィチは再びユーリイ・ダニイーロヴィチによりノーヴゴロドへ。
アファナーシイ・ダニイーロヴィチがノーヴゴロド公だった3年間は、スウェーデンがカレリアへの進出を強めた時期だったが、スウェーデンとの戦いで前面に立っていたのはアファナーシイ・ダニイーロヴィチではなくユーリイ・ダニイーロヴィチであった(ユーリイ・ダニイーロヴィチはモスクワをイヴァン・カリターに委ねてノーヴゴロドに居住していたとも言われる)。
1322年、修道士となる。ノーヴゴロドに葬られた。