リューリク家人名録

ヤロポルク・ヴラディーミロヴィチ

Ярополк Владимирович

ペレヤスラーヴリ公 князь Переяславский (1114-32)
キエフ大公 великий князь Киевский (1132-39)

生:1082?
没:1139.02.18−キエフ

父:キエフ大公ヴラディーミル・モノマーフキエフ大公フセーヴォロド・ヤロスラーヴィチ
母:ギータ (イングランド王ハロルド2世)

結婚:1116
  & エレーナ (ポーロヴェツ人)

子:?

生没年分領結婚相手生没年その親・肩書き
エレーナと
?ヴァシリコ

第8世代。モノマーシチ。洗礼名ヨアン(=イヴァン)? ヴラディーミル・モノマーフの五男。

 たまたま記録に残っているだけかもしれないが、スヴャトスラーフロマーンといった兄たちよりもよほど早くから活躍している(もっともそれを言ったら、弟ヴャチェスラーフの方がさらに早くから活躍している)。
 1103年、父の対ポーロヴェツ人遠征に従軍。
 1104年、ミンスクに派遣される。スヴャトポルク・イジャスラーヴィチの派遣した部隊、オレーグ・スヴャトスラーヴィチとともにグレーブ・フセスラーヴィチと戦うが、撃退された。

 1113年、父がキエフ大公となる。これに伴いスヴャトスラーフ・ヴラディーミロヴィチペレヤスラーヴリ公となるが、この年か翌年、ヤロポルク・ヴラディーミロヴィチが代わった(事情はよくわからないが、スヴャトスラーフ・ヴラディーミロヴィチは1114年に死んでいる)。
 1116年、ミンスク公グレーブ・フセスラーヴィチが父に反抗すると、ヤロポルク・ヴラディーミロヴィチは父とともに遠征し、これを破って捕虜とする。
 父がグレープ・フセスラーヴィチと講和すると、ヤロポルク・ヴラディーミロヴィチはムーロム公(?)フセーヴォロド・ダヴィドヴィチ(チェルニーゴフ公ダヴィド・スヴャトスラーヴィチの子)とともにドン河に遠征。ポーロヴェツ人と戦う。大勝利を収め、獲得した捕虜の中にいた娘を見染めて妻とした。
 1120年にもドン河遠征を繰り返している。

 1125年、父が死去。長兄ムスティスラーフ偉大公が後を継ぐ。イジャスラーフスヴャトスラーフロマーンの3人の兄がいずれもすでに亡く、ヤロポルク・ヴラディーミロヴィチがムスティスラーフ偉大公に次ぐ、言わばナンバー2であった。
 この時ポーロヴェツ人がペレヤスラーヴリに侵攻。ヤロポルク・ヴラディーミロヴィチは単独でこれを撃退し、さらに追撃して大勝利を収めた。その後もポーロヴェツ人との戦いを継続。

 1127年、フセーヴォロド・オーリゴヴィチが叔父のヤロスラーフ・スヴャトスラーヴィチを追ってチェルニーゴフを占領する。ムスティスラーフ偉大公は懲罰の軍を派遣しようとするが、フセーヴォロド・オーリゴヴィチはクールスクを譲渡して買収。ヤロポルク・ヴラディーミロヴィチがクールスクを領有することになった。
 ヤロポルク・ヴラディーミロヴィチはさらにクールスクを、甥イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチムスティスラーフ偉大公の子)に与えた。クールスクはチェルニーゴフ公領の東端に位置し、ペレヤスラーヴリ同様、ポーロヴェツ人との最前線にあたる。ヤロポルク・ヴラディーミロヴィチとしては、甥と協調して対ポーロヴェツ戦を進めようとの考えだったのだろう。

 1132年、ムスティスラーフ偉大公の死で、モノマーシチ兄弟の最年長となったヤロポルク・ヴラディーミロヴィチがキエフ大公位を継ぐ。
 ヤロポルク・ヴラディーミロヴィチは、軍人としては若年から活躍し、その名声を確立していたが、政治家としてはどうやら二流だったと言わざるを得ない。兄の代までまがりなりにも統一が保たれていたキエフ・ルーシは、ヤロポルク・ヴラディーミロヴィチの治世にタガが外れたように瓦解していった。
 その契機は、モノマーシチ一族内の内紛だった。

 当時のキエフ・ルーシにおいては、年長者相続が主流であり、ゆえにムスティスラーフ偉大公の死後は、ポーロツク系を除くリューリコヴィチの最年長者であるヤロポルク・ヴラディーミロヴィチがキエフ大公位を継いだ(ただしダヴィドヴィチ兄弟の年齢には問題あり。これについてはヴラディーミル・ダヴィドヴィチの項を参照のこと)。
 もっとも、ポーロツク系やダヴィドヴィチ兄弟は、考慮の対象にはならないかもしれない。と言うのも、かれらの父はキエフ大公ではなく、«ヴォーッチナ(父祖の地)» の概念が確立しつつあった当時は、キエフ大公の子ではないかれらにはそもそもキエフ大公になる資格は認められなかったと言っていいかもしれない(«ヴォーッチナ» の概念はキエフ大公位には適用されなかったかもしれないし、だいたいまだ完全に確立してもいなかっただろう。だからこそこの後、キエフ大公の子ではないフセーヴォロド・オーリゴヴィチキエフ大公になれたのだろう)。
 年長者相続の原則に従えば、ヤロポルク・ヴラディーミロヴィチの後を継ぐべきはその弟たちである。ところが、ヤロポルク・ヴラディーミロヴィチは、甥であるフセーヴォロド・ムスティスラーヴィチ(兄ムスティスラーフ偉大公の長男)を自身の後継者とすることを、どうやら生前のムスティスラーフ偉大公と約束していたようだ。この点、年代記もはっきり書いていないので詳細は不明だが、ヤロポルク・ヴラディーミロヴィチがフセーヴォロド・ムスティスラーヴィチペレヤスラーヴリ公としたのは確かである。
 ペレヤスラーヴリは、父も、そしてヤロポルク・ヴラディーミロヴィチ自身も、キエフ大公となる直前に領有していた地であり、ここを与えられたフセーヴォロド・ムスティスラーヴィチはいわば «後継者» の地位を認められたと言っていいだろう。子のなかったヤロポルク・ムスティスラーヴィチとしては、甥を我が子のように思っていたのかもしれない。しかし当時のルーシでは、上述のように、最年長者による相続、具体的には兄弟相続が一般的だった。事実ヤロポルク・ヴラディーミロヴィチもムスティスラーフ偉大公の弟としてキエフ大公位を継いでいるのである。つまりこの措置は、ヤロポルク・ヴラディーミロヴィチの弟たちの権利を無視したもので、当然のごとく、トゥーロフ公ヴャチェスラーフロストーフ=スーズダリ公ユーリー・ドルゴルーキーヴラディーミル=ヴォルィンスキイ公アンドレイ善良公の3人の弟たちが反発した。
 
 ユーリイ・ドルゴルーキイがペレヤスラーヴリからフセーヴォロド・ムスティスラーヴィチを追うと、ヤロポルク・ヴラディーミロヴィチはユーリー・ドルゴルーキーからペレヤスラーヴリを奪い返し、フセーヴォロドの弟イジャスラーフに与える。これに伴い、ポーロツクをさらにその弟スヴャトポルクに与えた。
 しかし弟たちの反発は強く、その混乱に乗じて3年前に兄が追放したポーロツク系一族がポーロツクに帰還し、スヴャトポルク・ムスティスラーヴィチを追ってポーロツクを奪い返している。
 ヤロポルク・ヴラディーミロヴィチはモノマーシチ一族間の調整を試みて、ペレヤスラーヴリを弟ヴャチェスラーフ・ヴラディーミロヴィチに与え、トゥーロフとミンスクをイジャスラーフ・ムスティスラーヴィチに与えた。
 この混乱に乗じ、チェルニーゴフ公フセーヴォロド・オーリゴヴィチが勢力を拡大。ヤロポルク・ヴラディーミロヴィチはユーリイ・ドルゴルーキイと和解して対抗した。

 しかし «後継者» の地位を与えた次弟ヴャチェスラーフ・ヴラディーミロヴィチは、ポーロヴェツ人との最前線に位置し、諸公の野心の的となっているペレヤスラーヴリを嫌い、1134年、勝手にかつての分領トゥーロフに戻ってしまった。ヤロポルク・ヴラディーミロヴィチはペレヤスラーヴリをユーリイ・ドルゴルーキイに与え、イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチにロストーフを譲らせる。
 しかしトゥーロフを奪われたイジャスラーフ・ムスティスラーヴィチはノーヴゴロドに赴いてフセーヴォロド・ムスティスラーヴィチと結び、勝手な叔父たちに対抗。さらにはフセーヴォロド・オーリゴヴィチとも結んだ。
 1135年、フセーヴォロドイジャスラーフのムスティスラーヴィチ兄弟はノーヴゴロド軍を率いてロストーフに進撃するが、ロストーフ軍に敗北。他方、南方ではユーリイ・ドルゴルーキイフセーヴォロド・オーリゴヴィチに敗退し、ロストーフに逃げ帰った。
 仕方なくヤロポルク・ヴラディーミロヴィチは、ペレヤスラーヴリを末弟アンドレイ善良公に与え、その分領ヴラディーミル=ヴォルィンスキイをイジャスラーフ・ムスティスラーヴィチに与えて宥和した。

 モノマーシチ一族の内紛は何とか収まったが、チェルニーゴフのスヴャトスラーヴィチ一族との争いは続く。1135年、ポーロヴェツ人を率いてフセーヴォロド・オーリゴヴィチがペレヤスラーヴリを攻略。ヤロポルク・ヴラディーミロヴィチはアンドレイ善良公の救援に赴くが、チェルニーゴフ軍に敗北を喫する。
 フセーヴォロド・オーリゴヴィチはさらにキエフに侵攻する。ヤロポルク・ヴラディーミロヴィチはクールスクを与えて講和した。

 ヤロポルク・ヴラディーミロヴィチの、つまりはキエフ大公の権威の低下は、ノーヴゴロド情勢にも影響を与えた。1136年、ノーヴゴロド市民はフセーヴォロド・ムスティスラーヴィチを追放。フセーヴォロド・オーリゴヴィチの弟を公に迎えた。

 フセーヴォロド・オーリゴヴィチは1138年にもキエフと事を構えるが、アンドレイ善良公ユーリイ・ドルゴルーキイロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチ(甥)がキエフに援軍を派遣。ポーロツクとガーリチの支援も得、さらにはハンガリー王ベーラ2世盲目王の軍も結集し、ヤロポルク・ヴラディーミロヴィチはチェルニーゴフに侵攻。フセーヴォロド・オーリゴヴィチを屈服させた。
 1139年、前年の返礼として、内紛に苦慮するベーラ盲目王に援軍を送っている。

 この時代、ポーロツクとガーリチはほぼキエフの統制から離れ、チェルニーゴフも独力で(もちろんポーロヴェツ人の支援を得て)キエフに対抗し得る存在となった。ノーヴゴロドはそもそも公を追い出し、民会による自治政を発足させている(ヤロポルク・ヴラディーミロヴィチはこれに介入することもできなかった)。ロストーフ、スモレンスク、ヴォルィニがまがりなりにもキエフに服属していたのは、血縁関係故だと言っても過言ではあるまい。
 わずか数年の間に、キエフ大公は、ルーシをまとめあげる力を失ってしまった。
 この時代に形成された、一方にヴラディーミロヴィチ兄弟(特にユーリイ・ドルゴルーキイ)、一方にムスティスラーヴィチ兄弟(特にイジャスラーフ・ムスティスラーヴィチ、のちにロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチ)、そしてもう一方にスヴャトスラーヴィチ一族、という三つ巴の図式(のちには四つ巴)は、以後100年近くにわたってルーシ情勢を呪縛することになる。

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最終更新日 22 02 2012

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