リューリク家人名録

ヴャチェスラーフ・ヴラディーミロヴィチ

Вячеслав Владимирович

スモレンスク公 князь Смоленский (1113-25)
トゥーロフ公 князь Туровский (1125-32、34-42、42-46)
ペレヤスラーヴリ公 князь Переяславский (1132-34、42)
ペレソープニツァ公 князь Пересопницкий (1146-49)
ヴィーシュゴロド公 князь Вышгородский (1149-51)
キエフ大公 великий князь Киевский (1139、51-54)

生:1083
没:1154.02.06−キエフ

父:キエフ大公ヴラディーミル・モノマーフキエフ大公フセーヴォロド・ヤロスラーヴィチ
母:ギータ (イングランド王ハロルド2世)

結婚:?

子:

生没年分領結婚相手生没年その親・肩書き
母親不詳
1ミハルコ-1130

第8世代。モノマーシチ。ヴラディーミル・モノマーフの六男。

 1096年、まだわずか13歳の時、ポーロヴェツ人を率いて長兄ムスティスラーフ偉大公の救援にかけつけ、ロストーフを蹂躙したオレーグ・スヴャトスラーヴィチを破る。
 年長の兄たちがごろごろしていた中で、なぜヴャチェスラーフ・ヴラディーミロヴィチが派遣されたのかはよくわからない。すでに死んでいたイジャスラーフを除くと、スヴャトスラーフは1113年、ロマーンは1118年、ヤロポルクは1103年が年代記初登場である(たぶん)。年代記初登場ということで言えば、6歳も上のイジャスラーフすら前年1095年が初登場であった。
 よほどヴャチェスラーフ・ヴラディーミロヴィチが幼少から活動的だったかのようにも思われるが、のちのことを考えてみると、むしろチャンチャンバラバラを厭う性格だったように思われる。

 当時ムスティスラーフ偉大公ノーヴゴロド公としてロストーフをも支配していたが、やはりひとりに広大な北ルーシを委ねるのは難しいということだったのだろう。父はこの時ロストーフに、別の息子を据えたとされる。問題はその息子が誰かで、一般的にはのちにロストーフ=スーズダリ公として知られることになる弟のユーリイ・ドルゴルーキイだとされるが、ヴャチェスラーフ・ヴラディーミロヴィチだとする説もある。
 ユーリイ・ドルゴルーキイはまだ生まれていないか、よちよち歩きの頃。ロストーフを平定した(のに力を貸した)のがヴャチェスラーフ・ヴラディーミロヴィチだったことも考えあわせると、やはりこの時ロストーフ公とされたのはヴャチェスラーフ・ヴラディーミロヴィチだったのではないだろうか。

 1113年、キエフ大公スヴャトポルク・イジャスラーヴィチが死去。跡を継いでキエフ大公となった父は、スモレンスク公スヴャトスラーフ・ヴラディーミロヴィチをペレヤスラーヴリに呼び寄せ、ヴャチェスラーフ・ヴラディーミロヴィチを後任のスモレンスク公とする。

 1125年、父が死去。長兄ムスティスラーフ偉大公が後を継ぎ、ヴャチェスラーフ・ヴラディーミロヴィチはトゥーロフ公とされる(ちなみにスモレンスク公となったのはムスティスラーフ偉大公の子ロスティスラーフ)。
 ただしこれには異説がある。
 トゥーロフ公位は1093年にスヴャトポルク・イジャスラーヴィチキエフ大公となって以降は不明で、おそらくスヴャトポルク・イジャスラーヴィチがそのまま領有していたものと想像されるが、そのスヴャトポルク・イジャスラーヴィチも1113年に死んでいる。その長男ヤロスラーフ・スヴャトポールチチヴラディーミル=ヴォルィンスキイ公で、しかも1118年には公位を追われている。次男ブリャチスラーフ・スヴャトポールチチトゥーロフ公になったのではないかと想像されるが、その没年が不明である。さらにブリャチスラーフ・スヴャトポールチチの死後は三男のイジャスラーフ・スヴャトポールチチが跡を継いだとする説もある。
 もちろん、ムスティスラーフ偉大公ブリャチスラーフなりイジャスラーフなりを追い出したということも考えられないではないが、やはりヴャチェスラーフ・ヴラディーミロヴィチがトゥーロフ公となったのは、1125年から1128年までのいずれかの時期、としか言えないだろう。

 1132年、ムスティスラーフ偉大公が死去。後を継いでキエフ大公となった別の兄ヤロポルク・ヴラディーミロヴィチは、ムスティスラーフ偉大公の長子フセーヴォロドに、続いて次子イジャスラーフにペレヤスラーヴリを与える。
 ペレヤスラーヴリは単にキエフ近郊にあるというだけではなく、ヴラディーミル・モノマーフヤロポルク・ヴラディーミロヴィチキエフ大公となるまでペレヤスラーヴリ公であった。そのため、一種 «次期キエフ大公» に与えられる領土として見られていたものと思われる。
 しかし当時のルーシでは兄弟相続が一般的だった(より正確には年長者相続)。つまりヤロポルク・ヴラディーミロヴィチの次にキエフ大公となるべきは、モノマーシチ一族で2番目に年長のヴャチェスラーフ・ヴラディーミロヴィチであり、それに続いてユーリイ・ドルゴルーキイアンドレイ善良公のふたりの弟がいて、長兄の子とはいえ次世代のフセーヴォロドイジャスラーフ・ムスティスラーヴィチ兄弟はさらにその次に位置していた。
 このため、兄の措置にヴャチェスラーフ・ヴラディーミロヴィチが、何より特にユーリイ・ドルゴルーキイアンドレイ善良公が激怒。フセーヴォロドを旧領ノーヴゴロドに追い払い、続いてペレヤスラーヴリ公とされたイジャスラーフと兄を相手取って戦いを挑んだ。このためヤロポルク・ヴラディーミロヴィチも翻意し、ペレヤスラーヴリをヴャチェスラーフ・ヴラディーミロヴィチに、イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチにはトゥーロフを与えた。

 しかし1134年には、ヴャチェスラーフ・ヴラディーミロヴィチはイジャスラーフ・ムスティスラーヴィチを追いだしてトゥーロフに帰還した。その理由というのが、年代記によれば、ポーロヴェツ人との戦いの最前線にあるペレヤスラーヴリを嫌い、静かな暮らしを望んだからだという。
 追い出されたイジャスラーフ・ムスティスラーヴィチは兄と結んで叔父たちに反抗するし、後任のペレヤスラーヴリ公となったユーリイ・ドルゴルーキイはチェルニーゴフを奪おうとするし、ごたごたが続いてユーリイ・ドルゴルーキイがロストーフに帰還すると、1135年、ヤロポルク・ヴラディーミロヴィチはペレヤスラーヴリを末弟アンドレイ善良公に与え、イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチにはヴラディーミル=ヴォルィンスキイを与えて、事態を鎮静化させた。

 1139年、兄ヤロポルク・ヴラディーミロヴィチが死去。いまやモノマーシチ一族(兄弟や甥たち)の最年長者となったヴャチェスラーフ・ヴラディーミロヴィチが、最年長者の権利としてキエフに入城。
 しかし2週間後にチェルニーゴフ公フセーヴォロド・オーリゴヴィチがキエフを占領。ヴャチェスラーフ・ヴラディーミロヴィチは大公位を譲ってトゥーロフに戻った。
 1113年以来キエフ大公位はモノマーシチ一族が独占してきていた。スヴャトスラーヴィチ一族で過去にキエフ大公となったのは、始祖のスヴャトスラーフ・ヤロスラーヴィチ以来、63年振りのことである。これ以降、モノマーシチとスヴャトスラーヴィチとがキエフ大公位を巡って激しく無益な消耗戦を繰り広げることを思うと、もしこの時ヴャチェスラーフ・ヴラディーミロヴィチが既得権を主張してキエフ大公位を護り抜いていたら、その結果キエフ大公位はモノマーシチの独占物という既成事実が成立していたら、キエフ・ルーシの歴史も多少は違っていたかもしれない。

 1142年、末弟のペレヤスラーヴリ公アンドレイ善良公が死去。フセーヴォロド・オーリゴヴィチはペレヤスラーヴリをヴャチェスラーフ・ヴラディーミロヴィチに与え、トゥーロフには自分の子スヴャトスラーフを派遣した。
 しかしこの措置にスヴャトスラーヴィチ一族が反発。イーゴリ & スヴャトスラーフのオーリゴヴィチ兄弟と、ヴラディーミル & イジャスラーフのダヴィドヴィチ兄弟がペレヤスラーヴリに侵攻した。フセーヴォロド・オーリゴヴィチと、甥のヴラディーミル=ヴォルィンスキイ公イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチが救援に駆け付け、スヴャトスラーヴィチ軍を破った。
 しかしイジャスラーフ・ムスティスラーヴィチがヴォルィニに帰還すると、イーゴリ・オーリゴヴィチが再びペレヤスラーヴリに侵攻。これも敗退させたものの、騒がしいペレヤスラーヴリを嫌ったヴャチェスラーフ・ヴラディーミロヴィチは、フセーヴォロド・オーリゴヴィチに頼んでトゥーロフに戻してもらった(ペレヤスラーヴリはイジャスラーフ・ムスティスラーヴィチに)。

 1146年、その死に際して、フセーヴォロド・オーリゴヴィチは大公位の後継者に弟イーゴリ・オーリゴヴィチを指名。その直後、イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチがキエフを占領し、大公となる。
 モノマーシチ一族の最年長者として、ヴャチェスラーフ・ヴラディーミロヴィチはキエフ大公にはならなかったものの、勢力的な活動を開始。1142年にフセーヴォロド・オーリゴヴィチにより奪われていた若干のトゥーロフ領を奪還し、ヴラディーミル=ヴォルィンスキイからスヴャトスラーフ・フセヴォローディチを追って甥ヴラディーミル・アンドレーエヴィチを公とする。
 しかしこれを不快に思ったイジャスラーフ・ムスティスラーヴィチは、弟ロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチと甥スヴャトスラーフ・フセヴォローディチ(兄フセーヴォロドの子?)を派遣してトゥーロフを取り上げ、自分の子ヤロスラーフ・イジャスラーヴィチに与えた。ヴャチェスラーフ・ヴラディーミロヴィチには、ただペレソープニツァ(ヴォルィニ)の領有だけが認められた。

 当時は、キエフ大公イジャスラーフスモレンスク公ロスティスラーフのムスティスラーヴィチ兄弟、ノーヴゴロド=セーヴェルスキイ公スヴャトスラーフ・オーリゴヴィチ、そしてロストーフ=スーズダリ公ユーリイ・ドルゴルーキイの3者が覇権を巡って争っていた。
 1149年、ユーリイ・ドルゴルーキイイジャスラーフ・ムスティスラーヴィチを追ってキエフを占領し、大公に。
 本領ヴォルィニに帰還したイジャスラーフ・ムスティスラーヴィチは、3年前に無視した年長権を持ちだして、ヴャチェスラーフ・ヴラディーミロヴィチをユーリイ・ドルゴルーキイに替えてキエフ大公にしようと、ヴャチェスラーフ・ヴラディーミロヴィチに接近。実際は、「オレの傀儡になれ。さもなくば領土を焼き払うぞ」と脅したとされる。
 これに驚いたヴャチェスラーフ・ヴラディーミロヴィチは、弟に対して、「甥と和解してヤツの欲しいものをくれてやれ。あるいは軍を率いてオレの領土を護ってくれ。さもなくばオレに文句を言うな」と書き送った。いささか情けない最年長者だが、年代記の言うように平穏を愛する性格であったならばこれも不思議はないか。
 ユーリイ・ドルゴルーキイは軍を率い、モノマーシチ兄弟はそろってルーツクに赴き、イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチと和解。ヴャチェスラーフ・ヴラディーミロヴィチは、弟からキエフ近郊のヴィーシュゴロドを与えられた。

 1150年、ハンガリー王ゲーザ2世の支援を得たイジャスラーフ・ムスティスラーヴィチがキエフに侵攻。ユーリイ・ドルゴルーキイはロストーフに逃亡し、ヴィーシュゴロドにいたヴャチェスラーフ・ヴラディーミロヴィチが取り残された。一旦は弟の後を襲ってキエフに入城したヴャチェスラーフ・ヴラディーミロヴィチだったが、市民もかれを嫌い、おそらくかれもさほど大公位に頓着がなかったのだろう、イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチの要求に応じてヴィーシュゴロドに退いた。
 一旦ロストーフに逃亡したユーリイ・ドルゴルーキイは、スヴャトスラーフ・オーリゴヴィチチェルニーゴフ公ヴラディーミル・ダヴィドヴィチ、さらにはガーリチ公ヴラディミルコ・ヴォロダーレヴィチとも同盟。イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチはヴャチェスラーフ・ヴラディーミロヴィチを味方につけて対抗しようとするが、結局逃げ出した。
 しかし、その後結局この年4度の «政権» 交替があり、キエフ大公位は落ち着かなかった。
 それはひとつには、一方にロストーフ、チェルニーゴフ、ノーヴゴロド=セーヴェルスキイ、ガーリチ、他方にヴォルィニ、スモレンスク、ノーヴゴロド、トゥーロフ、とルーシが完全に二分され、その勢力が拮抗したことが挙げられるだろう。しかしそれぞれの主役であるユーリイ・ドルゴルーキイは北東の果てのロストーフ(スーズダリ)、イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチはポーランドとの国境に近いヴラディーミル=ヴォルィンスキイと、いずれもキエフから本拠地が遠く離れていたこともひとつの要因であったろう。

 キエフを奪還したイジャスラーフ・ムスティスラーヴィチは、ヴィーシュゴロドを領有するヴャチェスラーフ・ヴラディーミロヴィチを味方につけない限りキエフ大公位を安定的に維持することが不可能だと考えたのか、1151年、ヴャチェスラーフ・ヴラディーミロヴィチを招き、両者はキエフを共同統治することで合意した。
 とはいえ、老齢でもあったヴャチェスラーフ・ヴラディーミロヴィチは(68歳)、軍事も政務も多くを甥に委ねたらしい。
 この年、ユーリイ・ドルゴルーキイスヴャトスラーフ・オーリゴヴィチヴラディーミル・ダヴィドヴィチの連合軍がキエフに侵攻。ヴャチェスラーフ・ヴラディーミロヴィチはイジャスラーフ・ムスティスラーヴィチとともにこれを破る。この戦いでヴラディーミル・ダヴィドヴィチが戦死し、弟のイジャスラーフ・ダヴィドヴィチチェルニーゴフ公位を継いだ。イジャスラーフ・ダヴィドヴィチはこの頃イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチの側に立っていたとされ、あるいはそれが一因だったのか、その後3年間、ユーリイ・ドルゴルーキイもおとなしくなった。

 1154年、イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチが死去。年少の甥を亡くして、ヴャチェスラーフ・ヴラディーミロヴィチは激しく嘆き悲しんだという。
 後継のキエフ大公位については、イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチの遺児ムスティスラーフ・イジャスラーヴィチとともに、もうひとりの甥であるスモレンスク公ロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチをキエフに呼び寄せてこれに与えた。
 この時もヴャチェスラーフ・ヴラディーミロヴィチはロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチに対して、父として敬うことを要求しただけで、実権はすべて与えた。こうして改めて二頭体制が成立した。

 ロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチがチェルニーゴフ遠征に発つのを見送った夜、床について、そのまま目を覚まさなかった。
 帰還したロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチにより、聖ソフィヤ大聖堂に埋葬された。

 ちなみに、かれの死については Рыжов Константин. Монархи России. М., 2006 は1154年2月としているが、同時にイジャスラーフ・ムスティスラーヴィチの死を1154年11月としている。あるいは別の史料にもあるように、ヴャチェスラーフ・ヴラディーミロヴィチの死は1154年12月か、あるいは1155年2月のいずれかではないだろうか。

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