リューリク家人名録

ヴラディーミル・ムスティスラーヴィチ «マーチェシチ»

Владимир Мстиславич "Мачешич"

ドロゴブージュ公 князь Дорогобужский (1150-54、70-71)
ヴラディーミル=ヴォルィンスキイ公 князь Владимирский (1154-57)
スルーツク公 князь Слуцкий (1162)
トリポーリ公 князь Трипольский (1162-68)
キエフ大公 великий князь Киевский (1171)

生:1132
没:1171.05.10−キエフ

父:キエフ大公ムスティスラーフ偉大公キエフ大公ヴラディーミル・モノマーフ
母:リュバーヴァ (ノーヴゴロド市長ドミートリイ・ザヴィードヴィチ)

結婚:1150
  & ? (クロアティア総督ベロシュ(ビェリチ)/ベーラ)

子:

生没年分領結婚相手生没年その親・肩書き
母親不詳
1ムスティスラーフドロゴブージュチェルニーゴフ公スヴャトスラーフ・フセヴォローディチ
2ヤロスラーフノーヴゴロドマルファ・シュヴァルノヴナ
3ロスティスラーフトリポーリ?
4スヴャトスラーフ-1221

第9世代。モノマーシチ。ムスティスラーフ偉大公の五男(末男)。

 添え名の «マーチェシチ» は «マーチェハ(継母)» からつくられた父称(古形)。«継母の子» 程度の意味。
 おそらく、歴史的に活躍した兄イジャスラーフロスティスラーフにとって継母の子であったことから、こう呼ばれたのだろう。つまりかれらとは異母兄弟だということになる。兄たちの母親はスウェーデン王女クリスティーナだったから、ヴラディーミル・ムスティスラーヴィチの母親はノーヴゴロドのリュバーヴァということになる。
 ヴラディーミル・ムスティスラーヴィチの生年は1132年とされる。これは父の死んだ年であり、あるいは父の死後生まれたのかもしれない。とすれば、なおさら «継母の子» という意味の父称は相応しいと言える。

 1146年にキエフ大公となった次兄イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチは、叔父のロストーフ=スーズダリ公ユーリイ・ドルゴルーキイを中心とした敵対諸公との戦いに明け暮れた。1148年にイジャスラーフ・ムスティスラーヴィチがロストーフ=スーズダリに遠征に赴いた際には、ヴラディーミル・ムスティスラーヴィチが留守のキエフを託されている。
 もっとも、1132年生というのが正しいとすれば、当時ヴラディーミル・ムスティスラーヴィチはまだハイティーンにもなっていない。イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチなど、1130年頃に結婚しているから、父親を知らないヴラディーミル・ムスティスラーヴィチにとっては文字通り父親のような存在だったろう(甥にあたるイジャスラーフ・ムスティスラーヴィチの子らの方が年長だったようだ)。

 1150年、イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチから、その本領ヴォルィニにあるドロゴブージュを分領としてもらう。
 なお、ヴラディーミル・ムスティスラーヴィチはこの年に結婚している。かれの生年が1132年とする点では史料が一致しているので、この当時18歳。どう考えても兄のイジャスラーフ・ムスティスラーヴィチがあつらえた結婚としか思えない。
 この当時クロアティアはハンガリーの領土であったから、クロアティア総督とはつまりはハンガリー貴族のことだろう。とすれば、ハンガリーと領土を接するヴォルィニを領有する兄にとっては都合のいい結婚ということになる。

 1154年、すぐ上の兄スヴャトポルク・ムスティスラーヴィチが死に、その遺領ヴラディーミル=ヴォルィンスキイを相続した。
 さらに同年、イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチが死ぬと、次の兄ロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチキエフ大公位を継ぐ。これに対してヴラディーミル・ムスティスラーヴィチは、キエフ大公位を巡ってロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチと対立するユーリイ・ドルゴルーキイの側に。ヴラディーミルもロスティスラーフも、イジャスラーフとの仲は良かったように思われるが、お互いはうまく行っていなかったのだろうか。

 1155年、ユーリイ・ドルゴルーキイキエフ大公となり、反対派と和解する。しかしイジャスラーフ・ムスティスラーヴィチの遺児ムスティスラーフ・イジャスラーヴィチは、亡父の仇敵と手を組んだヴラディーミル・ムスティスラーヴィチに対する恨みを忘れず、1157年、ヴラディーミル=ヴォルィンスキイからヴラディーミル・ムスティスラーヴィチを追い出し、妻と母を捕らえた。ヴラディーミル・ムスティスラーヴィチはハンガリーに逃亡。

 1157年中にルーシに帰還したものの、分領を持たなかったヴラディーミル・ムスティスラーヴィチは、ユーリイ・ドルゴルーキイの死後キエフ大公となったイジャスラーフ・ダヴィドヴィチとともにトゥーロフに侵攻。トゥーロフ公ユーリイ・ヤロスラーヴィチを追おうとして、逆に敗北を喫する。
 さらにイジャスラーフ・ダヴィドヴィチは、ムスティスラーフ・イジャスラーヴィチ(先にヴラディーミル・ムスティスラーヴィチをヴォルィニから追った)によりキエフを奪われる。
 ヴラディーミル・ムスティスラーヴィチはイジャスラーフ・ダヴィドヴィチとともにステップに逃亡した。

 その後、何らかの事情でスルーツク公となったらしい。
 1162年、次兄ロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチが息子のリューリク・ロスティスラーヴィチをスルーツクに派遣し、ヴラディーミル・ムスティスラーヴィチはこれに降伏。自らキエフのロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチのもとへ。ロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチにトリポーリ(キエフ公領)を与えられた。

 1167年、ロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチが死ぬと、ヴラディーミル・ムスティスラーヴィチはムスティスラーヴィチ一族の最年長に。厳密には甥の方が年長だったかもしれないが、世代的に上であるヴラディーミル・ムスティスラーヴィチの方に、キエフ大公位を継ぐ優先権はあった。しかしキエフ大公になるだけの自力のないヴラディーミル・ムスティスラーヴィチは、甥ムスティスラーフ・イジャスラーヴィチをキエフに招く。
 しかしそもそもヴラディーミル・ムスティスラーヴィチとムスティスラーフ・イジャスラーヴィチは仇敵同士であり、ヴラディーミル・ムスティスラーヴィチはロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチの遺児たちと共謀してムスティスラーフ・イジャスラーヴィチを捕らえようと計略した。
 この計略はムスティスラーフ・イジャスラーヴィチに知られ、ヴラディーミル・ムスティスラーヴィチはトリポーリからヴィーシュゴロドに逃亡。ムスティスラーフ・イジャスラーヴィチの分領であるヴォルィニを奪おうとしたロスティスラーヴィチ兄弟の計略も失敗し、3者は和解して分領は以前のままとされた(キエフはムスティスラーフ・イジャスラーヴィチが相続した)。

 しかしその後もヴラディーミル・ムスティスラーヴィチはムスティスラーフ・イジャスラーヴィチに対する策謀をやめず。ベレンデイ人(当時南ロシアにいたテュルク系の民族)に断られ、従兄弟のドロゴブージュ公ヴラディーミル・アンドレーエヴィチには橋を破壊され、迂回してラディーミチ人の地を経由して別の従兄弟アンドレイ・ボゴリュープスキイのもとへ赴くも、アンドレイ・ボゴリューブスキイにはリャザニへ行けと言われ、ようやくリャザニ公グレーブ・ロスティスラーヴィチのもとに匿われる。
 ヴラディーミル・ムスティスラーヴィチの母親(ほかの兄弟とは違う)も、ムスティスラーフ・イジャスラーヴィチによりチェルニーゴフに追われた。

 1169年、キエフがアンドレイ・ボゴリューブスキイにより攻略されると、ヴラディーミル・ムスティスラーヴィチはヴォルィニにあるキエフ教会領へ。さらにドロゴブージュ公ヴラディーミル・アンドレーエヴィチの死でドロゴブージュへ。そこの公になると、ヴラディーミル・アンドレーエヴィチの未亡人を追い出した。

 1170年、仇敵ムスティスラーフ・イジャスラーヴィチが死去。さらに1171年、キエフ大公グレーブ・ユーリエヴィチアンドレイ・ボゴリューブスキイの弟)が死去。ロスティスラーヴィチ兄弟(スモレンスク公ロマーンヴィーシュゴロド公ダヴィドリューリクムスティスラーフ勇敢公)により、ヴラディーミル・ムスティスラーヴィチは念願のキエフ大公位を手に入れた。

 しかしヴラディーミル・ムスティスラーヴィチのキエフ大公位は1ヶ月で終わった。アンドレイ・ボゴリューブスキイがヴラディーミル・ムスティスラーヴィチを好まず、スモレンスク公ロマーン・ロスティスラーヴィチキエフ大公とするためヴラディーミル・ムスティスラーヴィチにキエフを去るよう命ずる。その直後、ヴラディーミル・ムスティスラーヴィチは死んだ。

 年代記ではヴラディーミル・ムスティスラーヴィチは、十字架に懸けた誓約を悉く破った悪逆人として描かれている。

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