リューリク家人名録

ヴラディーミル・フセヴォローディチ «モノマーフ»

Владимир Всеволодич "Мономах"

ロストーフ公 князь Ростовский (1066-73)
スモレンスク公 князь Смоленский (1073-78)
チェルニーゴフ公 князь Черниговский (1078-93)
ペレヤスラーヴリ公 князь Переяславский (1094-1113)
キエフ大公 великий князь Киевский (1113-25)

生:1053−キエフ
没:1125.05.19−キエフ

父:キエフ大公フセーヴォロド・ヤロスラーヴィチキエフ大公ヤロスラーフ賢公
母:マリーヤ/エイレーネー (皇帝コンスタンティノス9世・モノマコス)

結婚①:1074
  & ギータ (イングランド王ハロルド2世)

結婚②:
  & ? -1107

結婚③:
  & エヴフィーミヤ -1126

子:

生没年分領結婚相手生没年その親・肩書き
ギータと
1ムスティスラーフ1076-1132ノーヴゴロドクリスティーナ-1120スウェーデン王インゲ1世
リュバーヴァ-1167ノーヴゴロド市長ドミートリイ
2イジャスラーフ1077-96ムーロム
3スヴャトスラーフ1080-1114スモレンスク
4ロマーン1081-1119ヴォルィニガーリチ公ヴォロダーリ・ロスティスラーヴィチ
5ヤロポルク1082-1139ペレヤスラーヴリエレーナ
6ヴャチェスラーフ1083-1154スモレンスク
母親不詳
7マリーツァ-1147偽ディオゲネス-1116(皇帝ロマノス4世の子を自称)
?ソフィヤスヴャトスラーフ・フセスラーヴィチヴィテブスク公
8ユーリイ109x-1157ロストーフアエパ・ハーン
9エヴフィーミヤ1099-1139カールマーン蔵書家王1074-1116ハンガリー王
10アンドレイ1102-41ヴォルィニトゥゴル・ハーン
アガーフィヤフセーヴォロド・ダヴィドヴィチ-1142グロドノ公
?マリーヤ/イリーナ?1104-46イサアキオス? アレクシオス?皇帝アレクシオス1世? イオアンネス2世?

第7世代。洗礼名ヴァシーリイ。
 モノマーシチの始祖。ただし当サイトでは便宜上、父フセーヴォロドと弟ロスティスラーフもモノマーシチに含めている。

 母親が皇帝コンスタンティノス・モノマコス(ロシア語でコンスタンティーン・モノマーフ)の娘とされているので、«モノマーフ» という添え名で知られているが、実際に母親がコンスタンティノス・モノマコスの娘かどうかは不明(少なくともビザンティン側の史料には存在しない)。ちなみにモノマコスとはギリシャ語で «モノ(一)» + «マコス(戦い)»。
 なお、かれの子供たち(ひいては子孫)は、現代ロシア語ではモノマーホヴィチ、古い史料ではモノマーシチと呼ばれる。

 息子たちへの『教訓』を書き残しており、これがそっくりそのまま『原初年代記』に掲載されている。この中でヴラディーミル・フセヴォローディチは自身の半生をかなり詳細に振り返っており、年代が記されていないし『原初年代記』の本文と整合性が取れない部分もあったりするが、このためヴラディーミル・フセヴォローディチの生涯についてはかなり正確に跡付けることができる。
 もちろん『原初年代記』作者のでっち上げという可能性も否定はできないだろうが、ここでは全面的に信用することにする(もちろん書いてある内容自体を信用するか否かは別問題)。

 幼少期をペレヤスラーヴリで過ごす。
 13歳の時から遠征に従軍していたという。

 ロストーフ、スモレンスク、ヴラディーミル=ヴォルィンスキイ、ペレヤスラーヴリ、ヴラディーミル=ヴォルィンスキイと、各地を転々とした。
 しかしペレヤスラーヴリについて自ら「ペレヤスラーヴリの父のもとへ」と書いているように、これらが必ずしも公として派遣された、ということではないらしい。おそらくルーシの情勢が不穏になってきた1068年頃にロストーフ公になったのだろうと考えられている。

 1076年、伯父のキエフ大公スヴャトスラーフ・ヤロスラーヴィチにより、その子オレーグ・スヴャトスラーヴィチとともにチェコに派遣され、シレジアでポーランド王ボレスワフ2世鷹揚王を助け、ボヘミア王ヴラティスラフ2世と戦う。

 1076年末、スヴャトスラーフ・ヤロスラーヴィチが死去。父が一旦キエフ大公位を継ぐが、伯父のイジャスラーフ・ヤロスラーヴィチと父との間に和解が成立。イジャスラーフ・ヤロスラーヴィチキエフ大公に返り咲いた。
 以後、両者は協調してスヴャトスラーフ・ヤロスラーヴィチの子らを始めとする甥たちを圧迫。リューリコヴィチの内紛は激化した。

 1078年、オレーグ・スヴャトスラーヴィチ & ボリース・ヴャチェスラーヴィチの連合軍に父が敗北すると、ペレヤスラーヴリに駆けつけ、オレーグ & ボリース連合軍の招いたポーロヴェツ人を破る。父 & 伯父の連合軍とともにチェルニーゴフを陥とす。
 さらにオレーグ & ボリース連合軍を撃破するが、イジャスラーフ・ヤロスラーヴィチが戦死。父がキエフ大公となり、ヴラディーミル・フセヴォローディチはスモレンスクに加えチェルニーゴフも領有することになった。

 1079年、ポーロツク公フセスラーフ・ブリャチスラーヴィチがスモレンスクを攻略。ヴラディーミル・フセヴォローディチはチェルニーゴフから出陣し、ポーロツク公領を蹂躙。ミンスクを攻略した。

 チェルニーゴフ公としてポーロヴェツ人と戦い、ルーシ南東部の最前線を守る。特に1080年、81年、82年と連年激しくポーロヴェツ人と戦った。
 もっとも、必ずしもポーロヴェツ人そのものを敵視したわけでもないのかもしれない。1081年には、ポーロヴェツ人のアサドゥク & サウクと戦うに際して、同じくポーロヴェツ人のベクラトギンと同盟している。そもそも、少なくとも記録の上では、ルーシ諸公の中で最初にポーロヴェツ人を «傭兵» として雇ったのはヴラディーミル・フセヴォローディチである(1076年のこと)。

 1084年、ヤロポルク・イジャスラーヴィチを追ってヴォルィニを奪ったリューリクヴォロダーリヴァシリコのロスティスラーヴィチ兄弟を追い、ヤロポルク・イジャスラーヴィチヴラディーミル=ヴォルィンスキイ公として復位させる。
 1085年、ヤロポルク・イジャスラーヴィチが父と対立すると、ヴラディーミル・フセヴォローディチはヤロポルク・イジャスラーヴィチをヴラディーミル=ヴォルィンスキイから追い、ダヴィド・イーゴレヴィチヴラディーミル=ヴォルィンスキイ公とする。
 1086年、ヤロポルク・イジャスラーヴィチを父と和解させ、再びかれをヴラディーミル=ヴォルィンスキイ公とする。

 1088年、父により、ヴラディーミル・フセヴォローディチの長男ムスティスラーフノーヴゴロド公とされる。

 1092年、ビザンティン帝国から逃れてきた偽ディオゲネス(皇帝ロマノス・ディオゲネスの子レオンを騙った人物)を受け入れ、娘と結婚させる。

 1093年、父が死去。これまで協調してスヴャトスラーヴィチ兄弟やロスティスラーヴィチ兄弟を排除してきたイジャスラーヴィチ兄弟と争いが起こることを憂慮したヴラディーミル・フセヴォローディチは、スヴャトポルク・イジャスラーヴィチキエフ大公位を譲り、自らは従前の領土を維持してチェルニーゴフに引き返す。以後、ヴラディーミル・フセヴォローディチはスヴャトポルク・イジャスラーヴィチの盟友としてその大公権を補佐する。
 この年、弟ペレヤスラーヴリ公ロスティスラーフ・フセヴォローディチも、ポーロヴェツ人との戦いで戦死。

 スヴャトポルク・イジャスラーヴィチとヴラディーミル・フセヴォローディチは連合してキエフ・ルーシのほとんどを支配。前者がトゥーロフを、後者がノーヴゴロド、スモレンスク、ロストーフ、ムーロム、チェルニーゴフを領有していた。これに対して、トムタラカーニ以外に特定の分領を持たないダヴィドオレーグのスヴャトスラーヴィチ兄弟が反発していた(その末弟ヤロスラーフはまだ歴史の表舞台に登場していない)。
 あるいはスヴャトスラーヴィチ兄弟を宥和する必要を感じたのか、この頃ダヴィド・スヴャトスラーヴィチにスモレンスクが与えられたらしい(この点、はっきりしない)。
 1094年、ポーロヴェツ人と同盟したトムタラカーニ公オレーグ・スヴャトスラーヴィチにチェルニーゴフを奪われる。ヴラディーミル・フセヴォローディチはオレーグ・スヴャトスラーヴィチと講和し、ペレヤスラーヴリへ(ロストーフとスモレンスクは息子ムスティスラーフ偉大公に委ねる)。この時ヴラディーミル・フセヴォローディチがあっさりチェルニーゴフを明け渡したのも、あるいはスヴャトスラーヴィチ兄弟に対する宥和政策の一環だったのかもしれない。
 なお、当時ムーロムはロストーフに属していたと思われるが、この時同時にオレーグ・スヴャトスラーヴィチに譲られたらしい。

 1095年、スヴャトポルク・イジャスラーヴィチとともに、オレーグ・スヴャトスラーヴィチに対して、対ポーロヴェツ人遠征に従軍するよう要請。しかしオレーグ・スヴャトスラーヴィチは同意したものの、実際には遠征に従軍せず。ヴラディーミル・フセヴォローディチとスヴャトポルク・イジャスラーヴィチは遠征からの帰還後オレーグ・スヴャトスラーヴィチに、改めて、ポーロヴェツ人との同盟をやめるよう要求するが、オレーグ・スヴャトスラーヴィチはこれを聞き入れなかった。
 この年、ダヴィド・スヴャトスラーヴィチノーヴゴロド公としたらしい。しかしダヴィド・スヴャトスラーヴィチはスモレンスクに帰還。ノーヴゴロド市民はロストーフのムスティスラーフ偉大公を呼び戻した。さらに次男イジャスラーフ・ヴラディーミロヴィチオレーグ・スヴャトスラーヴィチからムーロムを奪う。モノマーシチとスヴャトスラーヴィチとの対立は激化の一途を辿りつつあった。
 1096年、スヴャトポルク・イジャスラーヴィチとともに、オレーグ・スヴャトスラーヴィチに対して、キエフに出向いて和解し、対ポーロヴェツ戦線に加わるよう要求。オレーグ・スヴャトスラーヴィチがこれを拒否すると、ヴラディーミル・フセヴォローディチはスヴャトポルク・イジャスラーヴィチとともにチェルニーゴフに侵攻。スタロドゥーブに逃亡したオレーグ・スヴャトスラーヴィチを攻囲し、兄(?)ダヴィド・スヴャトスラーヴィチとともにキエフに出頭するよう約束させて解放した。
 しかしオレーグ・スヴャトスラーヴィチはスモレンスクには赴いたものの、キエフには出頭せず、ムーロムを攻めた。次男イジャスラーフ・ヴラディーミロヴィチが戦死。さらにオレーグ・スヴャトスラーヴィチはロストーフ、スーズダリを蹂躙。これに対して長男ムスティスラーフ偉大公がロストーフ近郊でこれを討ち、リャザニ、ムーロムを奪還した。ここにおいてムスティスラーフ偉大公はヴラディーミル・フセヴォローディチに、オレーグ・スヴャトスラーヴィチとの講和を提案。

 当時はモノマーシチとスヴャトスラーヴィチとの対立のほかに、ヴラディーミル=ヴォルィンスキイ公ダヴィド・イーゴレヴィチと、ペレムィシュリ公ヴォロダーリテレボーヴリ公ヴァシリコのロスティスラーヴィチ兄弟の対立があり、そしてポーロツク公フセスラーフ・ブリャチスラーヴィチが言わば局外中立の立場で諸公の内紛を見守っていた。
 20年に及ぶ一族間の内紛に決着をつけようと、ヴラディーミル・フセヴォローディチはムスティスラーフ偉大公の提案を拡大して、諸公による会議の開催を提案。
 1097年、リューベチにおいて、ヴォロダーリ・ロスティスラーヴィチフセスラーフ・ブリャチスラーヴィチを除く全諸公が会見。一族間の内紛を終結させ、各自に «ヴォーッチナ(父祖伝来の地)» の世襲権を認め、一致団結してポーロヴェツ人と戦うことを誓い合った。
 この会議の結果、現在の分領が認められたほか、スヴャトスラーヴィチ兄弟にはヴラディーミル・フセヴォローディチの分領から、かつて兄弟の父が領有していたセーヴェルスカヤ・ゼムリャー(チェルニーゴフとノーヴゴロド=セーヴェルスキイ)とムーロム=リャザニが割譲された。

 これ以降ヴラディーミル・フセヴォローディチは、リューベチ会議で確立された体制の庇護者として行動するようになる。その際、体制を揺るがす火種がヴォルィニであり、この火種に火をつけたのは、キエフ大公として本来体制のチャンピオンたるべきスヴャトポルク・イジャスラーヴィチであった。

 スヴャトポルク・イジャスラーヴィチとすれば、ヴラディーミル・フセヴォローディチと比べて弱小な自身の分領を拡大したいという願いもあったのだろう。
 リューベチ会議から帰国する途上のヴァシリコ・ロスティスラーヴィチを捕らえて、もともとその領土を狙っていたダヴィド・イーゴレヴィチとともにロスティスラーヴィチ兄弟と事を構える。1098年、ヴラディーミル・フセヴォローディチはスヴャトスラーヴィチ兄弟と共同してキエフに出兵。スヴャトポルク・イジャスラーヴィチは戦争を止めることを改めて誓うが、ダヴィド・イーゴレヴィチとロスティスラーヴィチ兄弟の対立はその後3年にわたって続いた。
 1100年、スヴャトポルク、ヴラディーミル、スヴャトスラーヴィチ兄弟がヴィティチェヴォに集い(第2回の諸公会議)、ダヴィド・イーゴレヴィチからヴォルィニを没収することを決議。ヴラディーミル=ヴォルィンスキイをスヴャトポルク・イジャスラーヴィチに与えた(結果的にスヴャトポルク・イジャスラーヴィチの意図は達成された)。ダヴィド・イーゴレヴィチにはドロゴブージュを残した。

 1101年、ゾローテツ(?)にて、スヴャトポルク・イジャスラーヴィチダヴィド & オレーグヤロスラーフも加えたスヴャトスラーヴィチ兄弟と会談してポーロヴェツ遠征を協議。この情報を聞きつけたポーロヴェツ人から講和の申し出があり、これを受け入れた。

 1103年、スヴャトポルク・イジャスラーヴィチとドロブスクにて会談。ダヴィド・スヴャトスラーヴィチポーロツク公ダヴィド・フセスラーヴィチ、イーゴリの孫ムスティスラーフ(誰それ?)、ヴャチェスラーフ・ヤロポールチチヤロポルク・ヴラディーミロヴィチ(息子)とともに、ポーロヴェツ人遠征(オレーグ・スヴャトスラーヴィチはポーロヴェツ人と友好関係にあったため、病気を口実に同行を拒否した)。大勝利を収める。

 1104年、スヴャトポルク・イジャスラーヴィチの部隊、ヤロポルク・ヴラディーミロヴィチ(ヴラディーミルが派遣)、オレーグ・スヴャトスラーヴィチ、さらにダヴィド・フセスラーヴィチ(?)がミンスクに侵攻。グレーブ・フセスラーヴィチと戦うが、この遠征は失敗に終わった。

 1107年、ポーロヴェツ人のルーシ襲来が相次ぐ。スヴャトポルク・イジャスラーヴィチ、ヴラディーミル・フセヴォローディチ、オレーグ・スヴャトスラーヴィチ、スヴャトスラーフ、ムスティスラーフ、ヴャチェスラーフ、ヤロポルクがこれを撃退(後の4人はヴラディーミル・フセヴォローディチの息子と上記イーゴリの孫?)。
 この年(もっともおそらくは1108年)、ダヴィド & オレーグのスヴャトスラーヴィチ兄弟と再度ポーロヴェツ人に遠征。アエパと講和し、その娘を息子ユーリイ・ドルゴルーキイの妻とする。
 1110年にもスヴャトポルク・イジャスラーヴィチダヴィド・スヴャトスラーヴィチとともにステップに遠征するが、この時は途中で引き返している。
 1111年にも対ポーロヴェツ人遠征を提唱し、賛同したスヴャトポルク・イジャスラーヴィチ(とその子ヤロスラーフ)、ダヴィド・スヴャトスラーヴィチ(とその子の誰か)、さらに息子たちとともにステップに出陣し、アゾーフ海にまで軍を進める。この結果、ポーロヴェツ人はヴォルガ東岸へと追いやられた。
 これら一連の戦いを通してヴラディーミル・フセヴォローディチは、対ポーロヴェツ戦の英雄として人気を博した。

 1113年、スヴャトポルク・イジャスラーヴィチの死に際して、キエフで民衆暴動が勃発。民会に請われ、ヴラディーミル・フセヴォローディチがキエフ大公となり、暴動は沈静化した。
 スヴャトポルク・イジャスラーヴィチ死去の報を聞いたポーロヴェツ人が侵攻してくるが、これを撃退。

 当時長男ムスティスラーフ偉大公ノーヴゴロド公であったが、ヴラディーミル・フセヴォローディチはさらにスヴャトスラーフペレヤスラーヴリ公に(同年ヤロポルクに替える)、ヴャチェスラーフスモレンスク公にする。またロマーンヴォロダーリ・ロスティスラーヴィチの娘と結婚させる。

 1116年、娘婿の偽ディオゲネスに «正統な皇位» を与えるため、ビザンティン帝国に遠征。ドナウ河畔の都市をいくつか攻略する。しかしその途上で偽ディオゲネスは暗殺され、ヴラディーミル・フセヴォローディチの占領地もビザンティン軍に奪還された。

 1116年、ミンスク公グレーブ・フセスラーヴィチが反抗するが、これを破り、捕虜とする。
 1118年、孫娘の婿ヴラディーミル=ヴォルィンスキイ公ヤロスラーフ・スヴャトポールチチと戦う。一旦は和解するが、ヤロスラーフ・スヴャトポールチチが妃を追いポーランド王ボレスワフ3世曲唇王と同盟。1119年、ヴラディーミル・フセヴォローディチはヤロスラーフ・スヴャトポールチチをハンガリー王イシュトヴァーン2世の宮廷に追放し、息子ロマーンヴラディーミル=ヴォルィンスキイ公に。

 1118年、皇帝アレクシオス1世・コムネノスの死後の混乱に乗じて軍をドナウに派遣するが、やがて皇位を確立したイオアンネス2世・コムネノスと和解し、1122年にその長男アレクシオスに孫娘(長男ムスティスラーフの娘)を与える(? ビザンティン側の史料によればそんな事実はない)。
 1119年、ロマーン・ヴラディーミロヴィチの死後、息子アンドレイ善良公ヴラディーミル=ヴォルィンスキイ公に。

 1119年、ミンスク公グレーブ・フセスラーヴィチがスモレンスクに侵攻。長男ムスティスラーフ偉大公をしてこれを討伐せしめ、これを捕虜とする。

 まだヴラディーミル・フセヴォローディチの存命中に、かれ同様、かれの子供たちも外敵との戦いに名を上げる。長男ノーヴゴロド公ムスティスラーフ偉大公はチューディ人と、ペレヤスラーヴリ公ヤロポルクはポーロヴェツ人と、ロストーフ=スーズダリ公ユーリイ・ドルゴルーキイはブルガール人と。

 キエフの聖ソフィヤ大聖堂に葬られる。

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