ギーダ
Gytha, Гида/Гита
公妃 княгиня
生:?
没:?
父:イングランド王ハロルド2世 1020/22-66
母:?
結婚:1074
& キエフ大公ヴラディーミル・モノマーフ 1053-1125
子:
名 | 生没年 | 分領 | 結婚相手 | 生没年 | その親・肩書き | |
---|---|---|---|---|---|---|
ヴラディーミル・モノマーフと | ||||||
1 | ムスティスラーフ | 1076-1132 | ノーヴゴロド | クリスティーナ | -1120 | スウェーデン王インゲ1世 |
リュバーヴァ | -1167 | ノーヴゴロド市長ドミートリイ | ||||
2 | イジャスラーフ | 1077-96 | ムーロム | |||
3 | スヴャトスラーフ | 1080-1114 | スモレンスク | |||
4 | ロマーン | 1081-1119 | ヴォルィニ | ? | ガーリチ公ヴォロダーリ・ロスティスラーヴィチ | |
5 | ヤロポルク | 1082-1139 | ペレヤスラーヴリ | エレーナ | ||
6 | ヴャチェスラーフ | 1083-1154 | スモレンスク | |||
ギータの子か否か不明 | ||||||
7 | マリーツァ | -1147 | 偽ディオゲネス | -1116 | (皇帝ロマノス4世の子を自称) | |
? | ソフィヤ | スヴャトスラーフ・フセスラーヴィチ | ヴィテブスク公 | |||
8 | ユーリイ | 109x-1157 | ロストーフ | ? | アエパ・ハーン | |
9 | エヴフィーミヤ | 1099-1139 | カールマーン蔵書家王 | 1074-1116 | ハンガリー王 | |
アガーフィヤ | フセーヴォロド・ダヴィドヴィチ | -1142 | グロドノ公 |
ハロルド2世の私生児。
ギータ/ギーダの生年も母親も不明。父は1064年か1066年に結婚したとされるが、ギータはそれ以前に生まれたと考えられる。母親は «白鳥の首のイーディス» とされることもあるが、確証はない。
ちなみに私生児なので、イングランド王位を継ぐ資格を持たない。
ギータの父ハロルド2世は、エリザヴェータ・ヤロスラーヴナの夫を戦死させた人物。«最後のアングロ=サクソン王» と言われることもあるが、ハロルド2世は父方からも母方からもデーン人で、アングロ=サクソンの血は引いていない。
1066年に «最後のアングロ=サクソン王» エドワード懺悔王の跡を継いでイングランド王となったが、ただ姉がエドワード懺悔王の妻だったというだけで、王家の血を引いているわけではない。そのためわずか9ヶ月後、ノルマンディ公ギヨーム私生児公にヘイスティングスの戦いで敗死。ギヨームがイングランド王ウィリアム征服王となった。
サクソ・グラマティクスによると、その後ギータは弟たちとともにデンマーク宮廷に落ち延びたらしい。デーン人つながりだろう。
1074年、ヴラディーミル・モノマーフと結婚。どういうつながりかはよくわからない。ルーシはスウェーデン、ノルウェーとはすでに婚姻関係を結んでいたが、さらにデンマークとも結ぼうとして、ヴラディーミル・モノマーフとギータの結婚となったのか。
いつ死んだかも不明だが、おおよそ1090年代だろうと考えられている。
ある説によれば、彼女は下ロートリンゲン公ゴドフロワ・ド・ブイヨンに同行して十字軍に赴き、1098年にパレスティナで修道女として死んだとされる。
しかし、とすると1096年当時彼女はフランドルにいたということになる。ヴラディーミル・モノマーフと離縁でもしたか。それともキエフから南下してコンスタンティノープルで落ち合ったか。また、1098年時点ではまだイェルサレムは陥落していないので、彼女が死んだのは1099年以降か、あるいはアンティオキアか。ちなみにこの十字軍には、父の仇ウィリアム征服王の長男ロベール短脛公も参加している。
もしこの説が正しいとすれば、ギータはルーシから十字軍に参加した唯一の人物(記録上)ということになる。
ヴラディーミル・モノマーフ自身は、1107年に「ユーリイの母親が死んだ」と記しているが、ギータがユーリイ・ドルゴルーキイの母親であるならば、彼女は1107年に死んだということになろう。そうでないなら、彼女はユーリイ・ドルゴルーキイが生まれる前には死んでいた(か夫と離縁していた)はずである。もっともユーリイ・ドルゴルーキイがいつ生まれたかがはっきりしないのだが。