リューリク家人名録

エヴプラクシーヤ・フセーヴォロドヴナ

Евпраксия Всеволодовна

公女 княжна
神聖ローマ皇妃 Kaiserin (1089-95)

生:1070?
没:1109.07.20−キエフ

父:キエフ大公フセーヴォロド・ヤロスラーヴィチキエフ大公ヤロスラーフ賢公
母:アンナ (ポーロヴェツ人のハーン)

結婚①:
  & シュターデ伯ハインリヒ -1087

結婚②:1089(1095離婚)−ケルン(ドイツ)
  & 皇帝ハインリヒ4世 1050-1106

子:?

第7世代。ヴラディーミル・モノマーフの妹。

 幼くしてシュターデ伯ハインリヒと婚約し、ドイツの修道院で育てられた。
 西方カトリック教会と東方オルトドクス教会は1054年に分裂したとされるが、当時はいまほど両者の教義上その他の違いは大きくなく、エヴプラクシーヤ・フセーヴォロドヴナも、カトリックの修道院でおそらくさほどの違和感なく過ごしていただろう。それよりも、キエフでドイツ語を学んだとは思えないので、ここで初めてドイツ語に触れたのではないかと想像される。ドイツ語の習得の方がはるかに大きな課題だったろう。
 シュターデ伯家とはリューリク家は以前にも関係を結んでおり(シュターデ伯レーオポルトの娘オダがルーシの公と結婚している。ただし相手は不明)、そういう意味では受け入れ側のシュターデ伯家にも問題はなかっただろう。結婚相手のハインリヒその人の人柄等は不明だが、その限りではエヴプラクシーヤ・フセーヴォロドヴナの結婚生活は大過なく送られたものと想像される。
 しかし結婚生活は長くは続かず、エヴプラクシーヤ・フセーヴォロドヴナは未亡人となって修道院に戻った。

 その後いかなるきっかけからか、皇妃ベルタを亡くしたばかりの皇帝ハインリヒ4世に見染められ、結婚。
 シュターデは北ザクセンのエルベ河口にあるが、ザクセンは1073年以来反ハインリヒで結束し、ルドルフ・フォン・ラインフェルデン、ヘルマン・フォン・ザルムとふたりの対立王を押し立ててハインリヒに抵抗してきていた。その叛乱も、1088年にハインリヒ・フォン・ザルムが死んでようやく終息。ハインリヒはザクセンを15年振りに平定したばかりだった。
 あるいはその過程で、ハインリヒはエヴプラクシーヤ・フセーヴォロドヴナに出会ったのかもしれない。ハインリヒ4世としては、エヴプラクシーヤ・フセーヴォロドヴナとの結婚を通じてシュターデ伯家、さらにはザクセン諸侯との関係を修復し、同時にキエフ・ルーシとの関係も強化したいと考えたのだろう。
 結婚に際して、エヴプラクシーヤ・フセーヴォロドヴナはアーデルハイト Adelheid という名をもらった。これが正教からカトリックに改宗したということなのか、それともただ単にエヴプラクシーヤというドイツ語には存在しない名前が嫌われただけなのか、判然としない(エヴプラクシーヤはギリシャ語の Εύπραξία から。ラテン語では彼女の名は Praxedis と書かれている)。

 宮廷では、エヴプラクシーヤ・フセーヴォロドヴナは孤立し、ハインリヒ4世との関係も悪かったとされる。1090年代に始まったハインリヒ4世と嫡男コンラートとの対立には様々な要因があるが、ひとつにはエヴプラクシーヤ・フセーヴォロドヴナを疎外し、暴力すら振るうハインリヒ4世をコンラートが批判したことにあるとも言われる。
 1093年、エヴプラクシーヤ・フセーヴォロドヴナはイタリアのカノッサに逃亡。教皇ウルバヌス2世に庇護を求めた。

 ハインリヒ4世は1077年の «カノッサの屈辱» で有名だが、このいわゆる叙任権闘争、さらにはその根底に横たわる皇帝権と教皇権との相克は、ハインリヒ4世が頭を下げて決着のつく問題ではない。
 ハインリヒ4世は1079年に司教会議でクレメンス3世を教皇に擁立した。クレメンス3世は、こんにちのカトリック教会からは «対立教皇» として偽物扱いされているが、1081年にハインリヒ4世がローマを占領して以来、ローマ教会のボスだったのはクレメンス3世である。
 1093年、ウルバヌス2世がローマに入城。ただしクレメンス3世もローマに居座っており、以後6年にわたってローマ教会にはふたりのボスがいる状態が続いた。エヴプラクシーヤ・フセーヴォロドヴナが、皇帝と並び立つ教皇に、しかもハインリヒ4世と対立するウルバヌス2世に助けを求めたのは、当然であろう。

 ウルバヌス2世は1095年、ピアチェンツァに公会議を招集。ここでエヴプラクシーヤ・フセーヴォロドヴナとハインリヒ4世との問題が協議された(この公会議はその後クレルモンに場所を移し、十字軍を提唱することになる。なお第1回十字軍にドイツ人がいないのは、当時ハインリヒ4世がウルバヌス2世と対立していたから)。
 当時のキリスト教会では一般的に離婚は認められておらず(だから、のちの話になるが、イングランド王ヘンリー8世と王妃キャサリン・オヴ・アラゴンとの離婚騒動はローマ・カトリック教会とイギリス国教会との分裂にまで発展した。通常離婚したい場合は、教会の認めない近親婚であることが «発覚» したとの体裁を採った)、ましてや女性から離婚を言い出すなどもってのほかだった。しかしこの場合は、ウルバヌス2世にとって、仇敵ハインリヒ4世を批判する絶好の材料ともなったことが、エヴプラクシーヤ・フセーヴォロドヴナに幸いした。
 エヴプラクシーヤ・フセーヴォロドヴナとハインリヒ4世の離婚は、予想されたとおり公会議において認められた。ただし、対立するウルバヌス2世が主催した公会議が下した結論に、ハインリヒ4世がどう反応したかは不明。
 エヴプラクシーヤ・フセーヴォロドヴナは、1097年にハンガリーへ。そしてそこから故郷キエフに戻る。

 1106年、修道女に。
 キエフのペチェールスキイ修道院に埋葬されている。

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