エヴフロシーニヤ・ムスティスラーヴナ
Евфросиния Мстиславна, Eufrozina
公女 княжна
ハンガリー王妃 magyar királyné
生:1130?
没:1186?
父:キエフ大公ムスティスラーフ偉大公 (キエフ大公ヴラディーミル・モノマーフ)
母:リュバーヴァ (ノーヴゴロド市長ドミートリイ・ザヴィードヴィチ)
結婚:1146
& ハンガリー王ゲーザ2世 1130-61
子:
名 | 生没年 | 分領 | 結婚相手 | 生没年 | その親・肩書き | |
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ゲーザ2世と | ||||||
1 | イシュトヴァーン | 1147-72 | ハンガリー王3世 | ? | ガーリチ公ヤロスラーフ・オスモムィスル | |
アグネス | -1182 | オーストリア公ハインリヒ・ヤソミルゴット | ||||
2 | ベーラ | 1148-96 | ハンガリー王3世 | マリア | 皇帝マヌエル1世の一族 | |
アニェス | -1184 | アンティオキア公ルノー・ド・シャティヨン | ||||
マルグリット | 1158-98 | フランス王ルイ7世 | ||||
3 | エルゼーベト | 1149- | ベドジフ | -1189 | ボヘミア王 | |
4 | ゲーザ | 1151- | ||||
5 | オドラ | スヴャトプルク | -1169 | ベドジフの弟 | ||
6 | イロナ | 1158-99 | レーオポルト5世 | -1194 | オーストリア公 | |
7 | マルギト | 1162- |
第9世代。モノマーシチ。
1132年、父を亡くす。
弟と思われるヴラディーミル・マーチェシチと同様、リュバーヴァの子として、兄姉たちとは母親が異なる。おそらく父の死後は、異母兄のイジャスラーフ・ムスティスラーヴィチの世話になっていたのだろうと想像される。イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチがキエフ大公となった1146年、ハンガリー王ゲーザ2世と結婚した。
ハンガリー王妃としての事績はほとんど知られていない。しかし1161・62年の夫の死で、情勢は大きく変わる。
長男イシュトヴァーンはまだ15。他方、夫の弟ラースローが亡命先のビザンティンから帰国し、内紛が勃発する。ラースローは1163年に毒殺されるが、さらにその弟イシュトヴァーンがラースローの跡を継ぎ、叔父と甥のふたりのイシュトヴァーンの争いが続いた。結局叔父の方のイシュトヴァーンも1165年に毒殺され、エヴフロシーニヤ・ムスティスラーヴナの息子が王位を確保した。
しかし今度は次男ベーラがコンスタンティノープルから帰国し、ビザンティン帝国の後押しを受けて兄と対立。
この間エヴフロシーニヤ・ムスティスラーヴナは、若きイシュトヴァーンを支えて政治的に大きな影響力を行使した。
1172年、長男イシュトヴァーン3世が死去。この時エヴフロシーニヤ・ムスティスラーヴナは、コンスタンティノープルに住んでいた次男ベーラではなく、手元に置いていた三男ゲーザに王位を継承させようと画策したらしい。急遽帰国したベーラは、ゲーザを逮捕し拘禁。ハンガリー王に即位した。
しかしこれは単純にエヴフロシーニヤ・ムスティスラーヴナの偏愛の問題ではなく、ビザンティン帝国との関係をどうするか、という国策にかかわる問題であった。実際、親ローマのエステルゴム大司教は(カトリック教徒だから当然だ)、ベーラに戴冠することを拒否している。
1186年、ゲーザを逃がそうとして失敗したエヴフロシーニヤ・ムスティスラーヴナは、ベーラに拘禁される。
その後コンスタンティノープルに追放されたエヴフロシーニヤ・ムスティスラーヴナは、イェルサレムへ。聖ヨハネ騎士団の営む修道院に入り、修道女として生涯を閉じたらしい(ハンガリーの史料では1193年にイェルサレムで死んだとされているらしい)。だとすると、彼女はカトリックに改宗したということだろうか。