セミョーン・グリゴーリエヴィチ・ズヴェニゴローツキイ
Семен Григорьевич Звенигородский
公 князь
ボヤーリン боярин (1606-)
生:?
没:?
父:グリゴーリイ・ヴァシーリエヴィチ・ズヴェニゴローツキイ公 (ヴァシーリイ・ミハイロヴィチ・ズヴェニゴローツキイ公)
母:?
結婚:?
子:なし
第21世代。スヴャトスラーヴィチ(オーリゴヴィチ)。ロシア貴族。
1581年、ラードガ総督。
その後南方にまわされ、トゥーラ、ブリャンスク等の総督を歴任しつつ、クリミア・タタールとの戦いに従事。1591年にはガジ=ギレイのモスクワ侵攻軍を撃退している。
その間、1589年にはカヘティ王国(グルジア)に使節として派遣され、1592年にはノルウェーとの国境画定作業に従事した。
1598年、ボリース・ゴドゥノーフの即位を支持。その後も基本的に南方で対タタール戦に従事していた。
1606年、偽ドミートリイ1世によりボヤーリンとされ、«プリカーズ・ボリショーヴォ・ドヴォルツァー»(あえて訳せば «大宮殿省»)の長官に任命された(強いて言うなら «宮内長官»)。
偽ドミートリイ1世との関係についてはよくわからないが、おそらく他の貴族たちと同様、基本的に支持していたのだろう。むしろ不明なのは、ヴァシーリイ・シュイスキーとの関係。
ロマーノフ家の時代になって、再び各地に総督として派遣されている(最後に記録に登場するのは1625年)。