ムスティスラーフ・ミハイロヴィチ
Мстислав Михайлович
カラーチェフ公 князь Карачевский
生:?
没:?
父:チェルニーゴフ公ミハイール・フセヴォローディチ (チェルニーゴフ公フセーヴォロド真紅公)
母:?
結婚:?
子:
名 | 生没年 | 分領 | 結婚相手 | 生没年 | その親・肩書き | |
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母親不詳 | ||||||
ティート | ||||||
アンドレイ | -1339 | ズヴェニーゴロド | ||||
パンテレイモーン |
第12世代。スヴャトスラーヴィチ(オーリゴヴィチ)。
生年・没年から何からほとんどわかっていない。
長兄ロスティスラーフ・ミハイロヴィチが1220年代の生まれとされているので、ムスティスラーフ・ミハイロヴィチも、遅くとも1230年代には生まれていたと考えていいのではないだろうか。
1246年、父がサライで殺された。長兄ロスティスラーフ・ミハイロヴィチはすでにハンガリーに亡命しており、チェルニーゴフ公位は次兄ロマーン老公が継いだ。もっともチェルニーゴフ公領はモンゴルに破壊されており、ロマーン老公もチェルニーゴフではなくブリャンスクに居を構えた。
ムスティスラーフ等、年少の弟たちも分領をもらっているが、いずれもかつてのチェルニーゴフ公領の中心であった南西部ではなく、北東部である。すなわち、セミョーンのグルーホフこそノーヴゴロド=セーヴェルスキーの近郊であるが、その分領はオカー川上流域に広がっていた。ムスティスラーフのカラーチェフはブリャンスク近郊にあり、さらにそこから北へと領土を有している。ユーリーのトルーサなどはヴラディーミル大公領との境界にほど近い。
その領土は、のちの分領から見ると、かつてのセーヴェルスカヤ・ゼムリャーの北西部を占めていたと考えることができる。
ただし、Рыжов Константин. Монархи России. М., 2006 が息子としているティート、アンドレイ、パンテレイモーンの3人については問題がある。
ズヴェニーゴロド公アンドレイ・ティートヴィチという人物が、おそらくは13世紀末頃にいただろうと推測されることから、ティートという息子の存在は推定される。しかしアンドレイとパンテレイモーンのふたりは、年代的にはやはりムスティスラーフ・ミハイロヴィチの子よりは孫に相応しい。
1310年、モンゴル軍とともに侵攻したブリャンスク公ヴァシーリイ・アレクサンドロヴィチにより、スヴャトスラーフ・ムスティスラーヴィチなるカラーチェフの公が殺されている。父称からしても年代的にも、ムスティスラーフ・ミハイロヴィチの息子ではないかと思われる。
すなわち、ムスティスラーフ・ミハイロヴィチの息子は、ティート、スヴャトスラーフ、ムスティスラーフの3人であって、アンドレイとパンテレイモーンはこの «ムスティスラーフ・ムスティスラーヴィチ» の子だったのではないだろうか。
没年については、何に拠ったか1280年としている文献があった。