聖ヤロポルク・イジャスラーヴィチ
Св. Ярополк Изяславич
ヴィーシュゴロド公 князь Вышгородский (1077-78)
トゥーロフ公 князь Туровский (1078-87)
ヴラディーミル=ヴォルィンスキイ公 князь Владимирский (1078-87)
生:?
没:1086.11.25/12.05
父:キエフ大公イジャスラーフ・ヤロスラーヴィチ (キエフ大公ヤロスラーフ賢公)
母:ゲルトルーダ/エリザヴェータ (ポーランド王ミェシュコ2世)
結婚:
& クーニグンデ 1055?-1117/40? (オルラミュンデ伯オットー)?
子:
名 | 生没年 | 分領 | 結婚相手 | 生没年 | その親・肩書き | |
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母親不詳 | ||||||
1 | ヤロスラーフ | -1102 | ブレスト | |||
2 | ヴャチェスラーフ | -1104 | ムーロム | |||
3 | アナスタシーヤ | -1159 | グレーブ・フセスラーヴィチ | -1119 | ミンスク公 |
第7世代。イジャスラーヴィチ。洗礼名ピョートル。
生年は不明。
イジャスラーヴィチ3兄弟については不明な点が多いが、ひとつが生母。ゲルトルーダのものとして残っている祈祷書には、ヤロポルクが「唯一の息子」と記されてあるという。とするとムスティスラーフとスヴャトポルクは私生児ということになってしまう(詳細はムスティスラーフの項参照)。しかしおそらくこれはどこかに間違いがあって、3兄弟はいずれもゲルトルーダから生まれた同腹の兄弟と考えていいだろう。
もうひとつが長幼の順で、何に依ったかヤロポルク・イジャスラーヴィチの生年を1047年頃とする史料がある。両親の結婚が1044年頃と考えられているからおかしくはないようだが、スヴャトポルクの生年が1050年とされているので、これだとヤロポルクの方が兄ということになる。しかしここではとりあえずヤロポルクを末弟として記述することにする(この点についてはスヴャトポルクの項参照)。
これまた何に依ったか、ヤロポルク・イジャスラーヴィチは1060年代にロストーフ公、スモレンスク公、ヴラディーミル=ヴォルィンスキイ公を歴任した、とする歴史書がある。根拠や詳細は不明。
1071年、兄スヴャトポルクを追ってポーロツクを奪還したポーロツク公フセスラーフ・ブリャチスラーヴィチと戦い、ポーロツクを占領する(これが年代記への初登場)。しかし翌年には奪回された。
1073年、父がキエフ大公位を追われ、亡命。ヤロポルク・イジャスラーヴィチも家族とともに同道している。
父はポーランドの支援を得られず神聖ローマ皇帝のいるドイツに赴いたが、この時ヤロポルク・イジャスラーヴィチはオルラミュンデ伯の娘クーニグンデと結婚したとも言われる。
1075年には父の代理としてローマ教皇グレゴリウス7世と交渉する。
1077年、父とともに帰国。キエフ大公となった父によりヴィーシュゴロドをもらう(トゥーロフもこの時にもらっているとする歴史書もある)。
1078年、父が死に、父の世代の最後の生き残りとなった叔父フセーヴォロド・ヤロスラーヴィチが跡を継いでキエフ大公となった。
父の世代は甥たちを疎外してルーシの領土を自分たちで占有していたが、あるいは父との同盟関係を配慮したのか、フセーヴォロド・ヤロスラーヴィチはヤロポルク等イジャスラーヴィチ兄弟には «ヴォーッチナ(父祖の地)» の領有を認めた。兄スヴャトポルクはノーヴゴロド公となり、ヤロポルクには父が領有してきたトゥーロフとヴォルィニが与えられた。ただし、当時はまだトゥーロフ公領、ヴォルィニ公領、ガーリチ公領の区別は確立していなかったと思われ、ヤロポルク・イジャスラーヴィチは要するにこの、のちに分割される3地域を一括して支配したものと考えられる。ヤロポルク・イジャスラーヴィチはヴラディーミル=ヴォルィンスキイに居住した。
しかし他の甥たちはイジャスラーヴィチ兄弟と違い分領を与えられていなかった。ロスティスラーフ・ヴラディーミロヴィチは1064年にトムタラカーニを、ボリース・ヴャチェスラーヴィチは1077年にチェルニーゴフを、ダヴィド・イーゴレヴィチは1081年にトムタラカーニをそれぞれ奪ったが、いずれもやがて命か領土を失っている。スヴャトスラーヴィチ兄弟も、ダヴィド・イーゴレヴィチから奪還した飛び地のトムタラカーニを領有するだけだった。
1084年、ロスティスラーフ・ヴラディーミロヴィチの遺児たち(ロスティスラーヴィチ兄弟)がヴォルィニに侵攻。ヤロポルク・イジャスラーヴィチは一旦はヴラディーミル=ヴォルィンスキイから追われるが、フセーヴォロド・ヤロスラーヴィチの子ヴラディーミル・モノマーフがロスティスラーヴィチ兄弟を撃退してくれたおかげで、公位を奪回することができた。
しかしフセーヴォロド・ヤロスラーヴィチは、甥たちを宥和する必要を感じたのかもしれない。1084年、ヤロポルク・イジャスラーヴィチの領土からドロゴブージュを切り取り、これをダヴィド・イーゴレヴィチに与えた。
当然これにヤロポルク・イジャスラーヴィチが反発。1085年、フセーヴォロド・ヤロスラーヴィチに対する戦争を準備したが、機先を制してヴラディーミル・モノマーフが侵攻してくると、家族をルーツクに残してポーランドに亡命。ルーツクは陥落した。ヤロポルク・イジャスラーヴィチの領土は分割され、ドロゴブージュに加えてヴラディーミル=ヴォルィンスキイもダヴィド・イーゴレヴィチに、ペレムィシュリ、ズヴェニーゴロド、テレボーヴリ(のちのガーリチ公領)がロスティスラーヴィチ兄弟に分配された(残りはおそらくフセーヴォロド・ヤロスラーヴィチが没収)。
ヤロポルク・イジャスラーヴィチは1086年に帰還。ヴラディーミル・モノマーフと和解し、ドロゴブージュとガーリチ公領を除く旧領を奪還した。以後、ガーリチ公領とヴォルィニ公領は100年にわたって別々の歴史を歩むことになる。
狩猟に出かけた際、従士団のひとりに殺される。暗殺犯はガーリチのロスティスラーヴィチ兄弟のもとに逃げ込んだ。
ヤロポルク・イジャスラーヴィチの遺体はキエフに運ばれ、そこに埋葬された。