リューリク家人名録

スヴャトポルク・イズャスラーヴィチ

Святополк Изяславич

ポーロツク公 князь Полоцкий (1069-71)
ノーヴゴロド公 князь Новгородский (1078-88)
トゥーロフ公 князь Туровский (1088-93)
キエフ大公 великий князь Киевский (1093-1113)

生:1050.11.08
没:1113.04.16−ヴィーシュゴロド

父:キエフ大公イジャスラーフ・ヤロスラーヴィチ (キエフ大公ヤロスラーフ賢公
母:ゲルトルーダ/エリザヴェータ (ポーランド王ミェシュコ2世)

結婚①:
  & バルバラ (ビザンティン皇帝アレクシオス1世・コムネノス) ※そんな娘は存在しない

結婚②:1094
  & エレーナ (ポーロヴェツ人首長トゥゴル=カーン)

子:

生没年分領結婚相手生没年その親・肩書き
妾(素性不詳)と
1ムスティスラーフ-1099ヴォルィニ
ビザンティン皇女と
2ヤロスラーフ-1123ヴォルィニハンガリー王ラースロー1世
ポーランド王ヴワディスワフ1世
キエフ大公ムスティスラーフ偉大公
3ズブィスラーヴァ1085/90-1124ボレスワフ3世曲唇王1086-1138ポーランド王
4プレツラーヴァアールモシュ1075-1127ハンガリー王ゲーザ1世
5アンナスヴャトスラーフ・ダヴィドヴィチ1080-1143ルーツク公
ポーロヴェツ王女と
6ブリャチスラーフ1104-27トゥーロフ
7イジャスラーフ-1128

第7世代。イジャスラーヴィチ。洗礼名ミハイール。

 イジャスラーヴィチ3兄弟の長幼の順は不明。しかし、ノーヴゴロドがキエフに次ぐルーシ第2の都市であったこと、ヴラディーミル偉大公ヤロスラーフ賢公も、そして父も、キエフ大公となる前はノーヴゴロド公であったこと、ヴラディーミル偉大公ヤロスラーフ賢公もその存命中に長男(と思われる息子)をノーヴゴロド公にしていること、等を勘案してみると、やはり父の跡を継いで(?)ノーヴゴロド公となったムスティスラーフが長男、そして父の死の直前にノーヴゴロド公となったスヴャトポルクが次男と考えていいだろう。
 もっとも、父の死後、その遺領であるトゥーロフ、ヴォルィニ、ガーリチを継いだのはヤロポルクである。あるいはこのためか、ヤロポルクの方が兄でスヴャトポルクは弟だと考える者もあるようだ。
 しかし年代記への登場も分領を与えられたのもスヴャトポルクの方が早いし、やはりスヴャトポルクが次男、ヤロポルクが三男と見るのが無難ではないだろうか(とりあえずここではそう考えておく)。

 1069年、ポーロツク公フセスラーフ・ブリャチスラーヴィチからポーロツクを奪った父により、兄ムスティスラーフがポーロツク公となる。その直後にムスティスラーフが死んだので、スヴャトポルク・イジャスラーヴィチがポーロツク公位を継いだ。しかしポーロツクは1071・72年にフセスラーフ・ブリャチスラーヴィチに奪回される。

 1073年、父がキエフ大公位を追われ、亡命。スヴャトポルク・イジャスラーヴィチも家族とともに同道している。
 1076年にスヴャトスラーフ・ヤロスラーヴィチが死ぬと、父はフセーヴォロド・ヤロスラーヴィチと和解し、1077年にはキエフ大公に復帰。スヴャトポルク・イジャスラーヴィチもこれに伴い帰国した。
 以後、父やスヴャトポルクたちイジャスラーヴィチ一族は、フセーヴォロド・ヤロスラーヴィチやその子ヴラディーミル・モノマーフ、孫ムスティスラーフ偉大公らモノマーシチ一族と協調していく。

 1078年、スヴャトポルク・イジャスラーヴィチは従兄弟ヴラディーミル・モノマーフとともにポーロツクに遠征してフセスラーフ・ブリャチスラーヴィチと戦う。
 同年、別の従兄弟のノーヴゴロド公グレーブ・スヴャトスラーヴィチが死ぬと、父によりノーヴゴロド公に。
 さらにこの年、父が死に、叔父フセーヴォロド・ヤロスラーヴィチキエフ大公位を継いだ。上述のように、父の遺領であるトゥーロフ、ヴォルィニ、ガーリチは、弟ヤロポルク・イジャスラーヴィチが継いだ。

 1086年、ヤロポルク・イジャスラーヴィチが死去。原初年代記は、スヴャトポルク・イジャスラーヴィチが1088年にノーヴゴロドからトゥーロフに移り住んだとしているが、トゥーロフはおそらく父からヤロポルクへと一貫して支配してきた地。弟の死で、スヴャトポルク・イジャスラーヴィチがそのまま相続したのではないだろうか。
 トゥーロフへの移住が1088年になったのは、おそらくスヴャトポルク・イジャスラーヴィチの後任のノーヴゴロド公に誰を据えるか、諸公間で調整を図っていたというところではないだろうか。結局フセーヴォロド・ヤロスラーヴィチの孫ムスティスラーフ偉大公ノーヴゴロド公となった。ちなみに、ヤロポルク・イジャスラーヴィチが領有していた領土のうちヴォルィニとガーリチはそれぞれ、諸公中の不満分子ダヴィド・イーゴレヴィチとロスティスラーヴィチ兄弟に与えられた。
 代々イジャスラーヴィチ一族が領有してきたヴォルィニとガーリチ(とノーヴゴロド)を失う結果となったこの一連の措置は、おそらくスヴャトポルク・イジャスラーヴィチにとっては不満の残るものだっただろうと想像される。

 1093年、フセーヴォロド・ヤロスラーヴィチが死去。フセーヴォロド・ヤロスラーヴィチにはヴラディーミル・モノマーフという有力な息子がいたが、ヴラディーミル・モノマーフは自らキエフ大公になろうとはせず、代わりにスヴャトポルク・イジャスラーヴィチのキエフ大公就任を支持した。第7世代の中で最年長だった、ということもあろうが、ヴラディーミル・モノマーフの気性もあったのだろう。

 スヴャトポルク・イジャスラーヴィチがキエフ大公となった直後、ポーロヴェツ人がルーシに侵攻。スヴャトポルク・イジャスラーヴィチはヴラディーミル・モノマーフとその弟ロスティスラーフ・フセヴォローディチとともに迎撃するが、敗北。ロスティスラーフ・フセヴォローディチは戦死し、スヴャトポルク・イジャスラーヴィチもキエフに逃げ帰った。
 1094年、スヴャトポルク・イジャスラーヴィチはポーロヴェツ人と講和し、そのハーンの娘と結婚した。
 1095年、ヴラディーミル・モノマーフとともに、改めてポーロヴェツ人と戦い、これを破る。

 20年前の父と叔父フセーヴォロド・ヤロスラーヴィチとの協調路線を、スヴャトポルク・イジャスラーヴィチも引き継ぎ、ヴラディーミル・モノマーフもスヴャトポルク・イジャスラーヴィチを補佐。しかしこれは裏返せば、他の諸公をふたりが押さえつける体制でもある。反発する諸公の急先鋒が、かつては父やフセーヴォロド・ヤロスラーヴィチとルーシを三分割したもうひとりの叔父スヴャトスラーフ・ヤロスラーヴィチの子でありながら、いまはトムタラカーニ以外にこれといった領土を持たないスヴャトスラーヴィチ兄弟であった。
 そのひとり、オレーグ・スヴャトスラーヴィチは、1094年にポーロヴェツ人と同盟してヴラディーミル・モノマーフからチェルニーゴフを奪う。一方ダヴィド・スヴャトスラーヴィチにはスヴャトポルク・イジャスラーヴィチがスモレンスクを与えたとする歴史書がある。あるいは融和しようとしたのか。

 1096年、スヴャトポルク・イジャスラーヴィチは、ヴラディーミル・モノマーフオレーグ・スヴャトスラーヴィチとに、内紛をやめてポーロヴェツ人に対する遠征を提案。ヴラディーミル・モノマーフは応じたものの、オレーグ・スヴャトスラーヴィチはこれを拒否した。
 スヴャトポルク・イジャスラーヴィチはヴラディーミル・モノマーフとともにチェルニーゴフに侵攻し、オレーグ・スヴャトスラーヴィチを追ってチェルニーゴフを奪い返した。さらにスタロドゥーブにオレーグ・スヴャトスラーヴィチを攻囲。
 まさにこの時ポーロヴェツ人がキエフに侵攻。スヴャトポルク・イジャスラーヴィチとヴラディーミル・モノマーフは攻囲を切り上げ、ダヴィド・スヴャトスラーヴィチ共々キエフに出頭するよう命じてオレーグ・スヴャトスラーヴィチをスモレンスクに放つ。そして取って返し、ポーロヴェツ人を撃退した。
 しかしダヴィド・スヴャトスラーヴィチは召喚に応じず、オレーグ・スヴャトスラーヴィチはロストーフ=スーズダリを蹂躙。ムスティスラーフ偉大公ヴラディーミル・モノマーフの子)がこれを追い払った。
 スヴャトポルク・イジャスラーヴィチとヴラディーミル・モノマーフがスヴャトスラーヴィチ兄弟に内紛をやめるよう要求したのも故なきことではなかった。『原初年代記』の記述が時に簡素で時に矛盾しているようでよくわからないが、この年ポーロヴェツ人は都合4度にわたってキエフ・ルーシに侵攻してきたらしい。一口にポーロヴェツ人と言っても、ルーシのようにいくつかの勢力に分裂していたらしく、キエフ・ルーシへの襲撃を指揮した首長らしき固有名詞もボニャク、クリャなど複数記載されている。
 そのうちのひとりが、スヴャトポルク・イジャスラーヴィチの義父トゥゴルカン。スヴャトポルク・イジャスラーヴィチはヴラディーミル・モノマーフとともにこれを撃退し、戦死したトゥゴルカンの遺体をベリョーストフに埋葬した。

 連年の内紛を憂慮したムスティスラーフ偉大公は、スヴャトスラーヴィチ兄弟との講和をヴラディーミル・モノマーフに提案。ヴラディーミル・モノマーフはこの提案を発展させて、こうして1097年、スヴャトポルク・イジャスラーヴィチの招集によりリューベチで諸公会議が開催された。
 この会議では、一族間の内紛を終結させ、互いの分領を尊重し、その上で一致団結してポーロヴェツ人に当たることを誓い合った。そしてそのための原則として、諸公による «ヴォーッチナ(父祖の地)» の世襲が事実上確認された。これによりスヴャトスラーヴィチ兄弟にはスヴャトスラーフ・ヤロスラーヴィチの領有したセーヴェルスカヤ・ゼムリャー(チェルニーゴフとノーヴゴロド=セーヴェルスキイ)が与えられた。さらに、ダヴィド・イーゴレヴィチによるヴォルィニ、ロスティスラーヴィチ兄弟によるガーリチの領有も確認された。
 年代記では諸公がお互いに「内輪揉めを繰り返していたらポーロヴェツ人を喜ばすだけだ」と自戒の言葉を述べあったように書いてあるが、実際にそのような意識を持っていたのはスヴャトポルク・イジャスラーヴィチとヴラディーミル・モノマーフだけだろう。他の諸公にとってはポーロヴェツ人は、ふたりの覇権を覆すための重要な同盟相手だったのだから。

 スヴャトスラーヴィチ兄弟に与えられたセーヴェルスカヤ・ゼムリャーはヴラディーミル・モノマーフの領土である。父フセーヴォロド・ヤロスラーヴィチも子ヴラディーミル・モノマーフもチェルニーゴフ公であった以上、セーヴェルスカヤ・ゼムリャーはスヴャトスラーヴィチ兄弟にとってと同様、ヴラディーミル・モノマーフにとっても «ヴォーッチナ» であった。つまりヴラディーミル・モノマーフの譲歩によってスヴャトスラーヴィチ兄弟の «叛乱» は収まり、ルーシに平和がもたらされた、と言うことができるだろう。
 しかしこの当時ヴラディーミル・モノマーフは息子たちとあわせて、ペレヤスラーヴリからセーヴェルスカヤ・ゼムリャー、ムーロムとロストーフ、さらにはノーヴゴロドまで領有していた。ルーシの東半分がまるまるヴラディーミル・モノマーフ父子の領土だったのである。しかもセーヴェルスカヤ・ゼムリャーを譲渡したといっても、代わりにスモレンスクを返却してもらっているのだから、差し引きゼロである。

1067107810881097
キエフイジャスラーフフセーヴォロドフセーヴォロドスヴャトポルク
ノーヴゴロドグレーブスヴャトポルクムスティスラーフムスティスラーフ
ポーロツクフセスラーフフセスラーフフセスラーフフセスラーフ
ガーリチイジャスラーフヤロポルクロスティスラーヴィチ兄弟ロスティスラーヴィチ兄弟
ヴォルィニダヴィドダヴィド
トゥーロフスヴャトポルクスヴャトポルク
トムタラカーニスヴャトスラーフロマーンオレーグオレーグ
セーヴェルスカヤ・ゼムリャーヴラディーミルヴラディーミルダヴィド & オレーグ
ムーロムフセーヴォロドフセーヴォロドヤロスラーフ
ロストーフフセーヴォロドヴャチェスラーフ
スモレンスクスヴャトスラーフ
ペレヤスラーヴリヴラディーミル

 こうして見てみれば、いかにフセーヴォロド・ヤロスラーヴィチがうまく立ち回ったかが一目瞭然で、スヴャトスラーヴィチ一族の犠牲の下に自分の領土を増やし、イジャスラーヴィチ一族の犠牲の下に甥たちを宥めていたわけだ。リューベチ会議で «ヴォーッチナ(父祖の地)» が確認されたと言っても、それはヴラディーミル・モノマーフとスヴャトスラーヴィチ兄弟についてだけの話であり、スヴャトポルク・イジャスラーヴィチにとっては父祖の地は失われたままだったのである(なお、上記の表には一部推測・想像がまじっているし、単純化している)。
 別に年代記は何とも言ってはいないが、おそらくキエフ大公とはいえ、キエフとトゥーロフを領有するだけのスヴャトポルク・イジャスラーヴィチとしても心穏やかならざるものがあったのではないかと想像される。
 そうであるとするならば、おそらくそこに付け込まれたということなのだろう。リューベチ会議で決議された «ヴォーッチナ» 尊重の原則を最初に踏みにじったのは、ほかならぬスヴャトポルク・イジャスラーヴィチだった。

 この当時の最大の紛争がスヴャトスラーヴィチ兄弟とヴラディーミル・モノマーフ(+スヴャトポルク・イジャスラーヴィチ)の対立であったとすれば、それに次ぐのがダヴィド・イーゴレヴィチとロスティスラーヴィチ兄弟の対立であった。
 ダヴィド・イーゴレヴィチとロスティスラーヴィチ兄弟はもともと独自の分領を持たず、フセーヴォロド・ヤロスラーヴィチに対して協調して蜂起し、ヴォルィニ領有を狙った仲である。その後ロスティスラーヴィチ兄弟はガーリチを分割支配することになったが、ダヴィド・イーゴレヴィチが領有したヴォルィニを諦めていなかった(おそらくこの当時、«ヴォルィニ» と «ガーリチ» とは区別されていなかった)。
 リューベチ会議の終了後、ダヴィド・イーゴレヴィチはスヴャトポルク・イジャスラーヴィチのお伴をしてキエフへ。一方ヴァシリコ・ロスティスラーヴィチはガーリチに帰還しようとしたが、その途上、スヴャトポルク・イジャスラーヴィチから «名の日» の祝いのための招待を受け取る(«名の日» の祝いが年代記で確認される最初)。引き返してキエフに赴いたヴァシリコ・ロスティスラーヴィチは、スヴャトポルク・イジャスラーヴィチにより拘束された。
 年代記によれば、ヴァシリコ・ロスティスラーヴィチヴラディーミル・モノマーフと結んで自分を狙っているという密告を信じたダヴィド・イーゴレヴィチに、スヴャトポルク・イジャスラーヴィチがたぶらかされたのだという。スヴャトポルクの弟ヤロポルク・イジャスラーヴィチを暗殺した犯人はロスティスラーヴィチ兄弟の長兄に庇護されていた。そうした個人的な恨みも手伝ったのだろう。
 スヴャトポルク・イジャスラーヴィチはヴァシリコ・ロスティスラーヴィチダヴィド・イーゴレヴィチに引き渡す。ダヴィド・イーゴレヴィチヴァシリコ・ロスティスラーヴィチの目を潰し、ヴラディーミル=ヴォルィンスキイに監禁した。

 この暴挙に、ヴラディーミル・モノマーフどころかダヴィドオレーグのスヴャトスラーヴィチ兄弟も反発。1098年、3人は揃ってスヴャトポルク・イジャスラーヴィチを難詰した。腰砕けとなったスヴャトポルク・イジャスラーヴィチはすべての責任をダヴィド・イーゴレヴィチに押し付けたものの、結局ダヴィド・イーゴレヴィチに対して懲罰の兵を挙げることを余儀なくされた。
 1099年、スヴャトポルク・イジャスラーヴィチはヴォルィニに侵攻。ダヴィド・イーゴレヴィチはポーランド王ヴワディスワフ1世・ヘルマンと同盟するが、やがてヴワディスワフ・ヘルマンは立場を替え、スヴャトポルク・イジャスラーヴィチは孤立無援のダヴィド・イーゴレヴィチをヴラディーミル=ヴォルィンスキイに攻囲する。講和し、ダヴィド・イーゴレヴィチチェルヴェニへ追った。
 ここでやめておけばいいものを、スヴャトポルク・イジャスラーヴィチはさらにガーリチをも狙う。『原初年代記』は「ここは父と兄の領土だ」というスヴャトポルク・イジャスラーヴィチの述懐を記しており、ガーリチもまたイジャスラーヴィチ一族の «ヴォーッチナ» だという意識があったことが窺える。
 スヴャトポルク・イジャスラーヴィチはガーリチに侵攻するが、ロスティスラーヴィチ兄弟に撃退される。ヴォルィニに戻ったスヴャトポルク・イジャスラーヴィチは、ヴラディーミル=ヴォルィンスキイを息子ムスティスラーフ・スヴャトポールチチに、ルーツクを娘婿スヴャトーシャ・ダヴィドヴィチに与えた。さらに息子ヤロスラーフ・スヴャトポールチチをハンガリーに派遣し、自身はキエフに帰還した。
 ヤロスラーフ・スヴャトポールチチがハンガリー軍を連れ戻るが、同時にダヴィド・イーゴレヴィチもポーランドから戻り、さらにポーロヴェツ人の地に赴いて多数のポーロヴェツ人を引き連れてくる。講和したロスティスラーヴィチ兄弟とダヴィド・イーゴレヴィチ、かれらの率いるポーランド軍とポーロヴェツ人により、ハンガリー軍は撃退される。
 ヤロスラーフ・スヴャトポールチチはポーランドに逃亡。ダヴィド・イーゴレヴィチはヴラディーミル=ヴォルィンスキイを攻囲し、ムスティスラーフ・スヴャトポールチチは戦死。スヴャトポルク・イジャスラーヴィチはルーツクに援軍を送り、一旦はダヴィド・イーゴレヴィチを撃退する。しかし結局スヴャトーシャ・ダヴィドヴィチも屈服し、チェルニーゴフに逃げ帰った。
 こうして結局ヴォルィニはまるまるダヴィド・イーゴレヴィチの領土に戻ったばかりか、ロスティスラーヴィチ兄弟をも敵にまわすことになった。

 1100年、一連の騒動に決着をつけるため、ヴィティチェヴォで諸公会議が開催された。スヴャトポルク・イジャスラーヴィチとヴラディーミル・モノマーフ、スヴャトスラーヴィチ兄弟が集まり、ダヴィド・イーゴレヴィチを召喚してヴォルィニ処理を話し合った。即ち、ヴラディーミル=ヴォルィンスキイを中心とした大部分はスヴャトポルク・イジャスラーヴィチ(実際はその子ヤロスラーフ)が獲得し、若干の都市のみをダヴィト・イーゴレヴィチの分領として残すことが決議された。
 結局スヴャトポルク・イジャスラーヴィチは、ガーリチの奪回はならなかったものの、ヴォルィニの大部分を獲得することができたわけで、一連の騒動の尻拭いをすべてダヴィド・イーゴレヴィチに押し付けて、利益を上げたことになる。非道なことをした後始末としては、3人の諸公もスヴャトポルク・イジャスラーヴィチにずいぶん甘いものである。
 しかしこれにより、ルーシ内での諸公間の紛争は一応終結した。

 ヴラディーミル=ヴォルィンスキイを領有することになった息子ヤロスラーフ・スヴャトポールチチをあるいは気遣ったのか、スヴャトポルク・イジャスラーヴィチは、1102年にズブィスラーヴァをポーランド王ボレスワフ曲唇王と、1104年にはプレツラーヴァをハンガリー王子アールモシュと相次いで結婚させ、ヴォルィニに隣接する諸国との友好関係に腐心した。
 同時に、ブレストを領有する甥ヤロスラーフ・ヤロポールチチを攻め、その分領を取り上げた。

 1101年、4人の公はゾローテツ(?)にて再び会談(スヴャトスラーヴィチ兄弟の末弟ヤロスラーフも同席)。ポーロヴェツ人への遠征を話し合うが、この情報を聞きつけたポーロヴェツ人から講和の申し入れがあり、これを受け入れた。

 1102年、ムスティスラーフ偉大公のノーヴゴロドと息子ヤロスラーフ・スヴャトポールチチのヴラディーミル=ヴォルィンスキイとを交換したいと考え、ムスティスラーフ偉大公をキエフに召喚。しかし付き添ってきたノーヴゴロド市民がこれに反発し、ムスティスラーフ偉大公を連れてノーヴゴロドに帰ってしまった。

 1103年、スヴャトポルク・イジャスラーヴィチとヴラディーミル・モノマーフがドロブスクにて会談し、再びポーロヴェツ人への遠征を話し合う。これにはダヴィド・スヴャトスラーヴィチポーロツク公ダヴィド・フセスラーヴィチ、イーゴリの孫ムスティスラーフ(誰それ?)、ヴャチェスラーフ・ヤロポールチチ(甥)、ヤロポルク・ヴラディーミロヴィチヴラディーミル・モノマーフの子)も加わり(オレーグ・スヴャトスラーヴィチは病気を口実に参加を拒否)、ステップに遠征。大勝利を収めた。

 1104年、スヴャトポルク・イジャスラーヴィチの部隊、ヤロポルク・ヴラディーミロヴィチオレーグ・スヴャトスラーヴィチ、さらにダヴィド・フセスラーヴィチ(?)がミンスクに侵攻。グレーブ・フセスラーヴィチと戦うが、この遠征は失敗に終わった。

 1106年に、ポーランドでの権力闘争に敗れたズビグニェフがスヴャトポルク・イジャスラーヴィチのもとに逃亡してきたと『原初年代記』は伝えているが、ポーランドの文献によればこの頃ルーシはその弟ボレスワフ曲唇王を支援していたらしい。

 1106年、ポーロヴェツ人がルーシの辺境に出現。この時はスヴャトポルク・イジャスラーヴィチは軍を派遣しただけだったが、翌1107年、ポーロヴェツ人のルーシ襲来が相次いだのに対して、スヴャトポルク・イジャスラーヴィチ自身に加え、ヴラディーミル・モノマーフオレーグ・スヴャトスラーヴィチ、スヴャトスラーフ、ムスティスラーフ、ヴャチェスラーフ、ヤロポルクがこれを撃退しステップにまで追った(後の4人はヴラディーミル・モノマーフの息子?)。
 1110年にもスヴャトポルク・イジャスラーヴィチ、ヴラディーミル・モノマーフダヴィド・スヴャトスラーヴィチの3人でステップに遠征。しかしこの時は寒波の影響で途中で引き返した。
 翌1111年、改めてヴラディーミル・モノマーフが対ポーロヴェツ人遠征を提唱。これにスヴャトポルク・イジャスラーヴィチとダヴィド・スヴャトスラーヴィチが賛同して、再び3人でステップへ(これには息子ヤロスラーフも従軍)。大勝利を挙げた。
 これら一連のステップ遠征は、それまで襲来するポーロヴェツ人をルーシ内で迎え撃ち、あるいはせいぜいその辺境において撃退していたルーシ諸公が、はじめてポーロヴェツ人の本拠地であるステップの奥深くにまでこちらから侵攻したもので、それもかれら有力諸公が一致協力したからこそ可能だったと言っていいだろう。

 この頃、ペチェールスキイ修道院の修道士ネーストルによって、いわゆる『原初年代記』が執筆された。その最後の項は1110年。

 1113年、かれの死の報せに、キエフ市民が暴動を起こす。キエフの聖ミハイール教会に葬られる。

 紛争解決や対ポーロヴェツ人遠征について、自らの独断で諸公に決定を押し付けるのではなく、相次いで諸公会議を開催して(少なくとも有力諸公による)合議で決定しようとした。事実リューベチとヴィティチェヴォの両会議は諸公間の紛争をまがりなりにも解決したし、それがあって1100年代の数度にわたる対ポーロヴェツ遠征も可能となったと言える。
 しかし諸公会議を開催したのは最大の実力者ヴラディーミル・モノマーフの意向を無視できなかったからであり、リューベチ会議自体がヴラディーミル・モノマーフの主唱したものである。
 また対ポーロヴェツ遠征も、勝利に終わってはいても、結局ポーロヴェツ人のルーシ遠征をやめさせるには至らず、脅威を取り除くことは不可能であった。そもそもこちらもその主唱者はヴラディーミル・モノマーフである。
 そういう意味で、どうしてもヴラディーミル・モノマーフの栄光に隠れて影の薄いスヴャトポルク・イジャスラーヴィチだが、これを逆に言えば、ヴラディーミル・モノマーフに無駄に敵対することなく、よくその意向を汲んで協力した、と評価してもいい。

 なお、最初の妻とされる «ヴァルヴァーラ・コームニナ» だが、ビザンティン側の史料に従えばアレクシオス・コムネノスにはこんな娘は存在しない。当時のコムネノス皇家からルーシに嫁いだ娘も存在しない。史料から抜け落ちたのか、あるいはルーシ側の勘違いか。こちらの方がありそうで、ギリシャ出身(あるいは実際に皇帝と血縁があったのかもしれない)の女性を「皇帝の娘」と記述してしまったのだろう。

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