リューリク家人名録

ブリャチスラーフ・スヴャトポールチチ

Брячислав Святополчич

トゥーロフ公 князь Туровский

生:1104
没:1127?

父:キエフ大公スヴャトポルク・イジャスラーヴィチキエフ大公イジャスラーフ・ヤロスラーヴィチ
母:エレーナ (ポーロヴェツ人の首長トゥゴル=ハーン)

結婚:?

子:?

第8世代。イジャスラーヴィチ。

 その誕生が原初年代記に記載されている。父が当時キエフ大公だったお陰か。
 しかしその後の生涯はあまりよくわかっていない。1113年に父が死んだが、兄ヤロスラーフ・スヴャトポールチチはすでにヴラディーミル=ヴォルィンスキイ公であり、しかもトゥーロフを領有した形跡はないことから、まだ幼年であったものの、ブリャチスラーフ・スヴャトポールチチがトゥーロフを相続したものと考えられる。
 とはいえ、その後も年代記には姿を現していないようだ。当初はまだ幼年だったろうから仕方ないが、成長してからも姿を見せないとは、よほど影が薄かったか、それとも活躍を始められる年齢に達する前に死んでしまっていたか。
 もっとも、トゥーロフ公領ポーロツク公領にはさまれたスルーツクは、1116年の時点でヴラディーミル・モノマーフの領土となっている。とすると、あるいは父の死後トゥーロフはヴラディーミル・モノマーフに奪われ、ブリャチスラーフ・スヴャトポールチチは領土を持たなかったのかもしれない。

 没年もよくわからない。1127年という説を見たことがあるが、1123年とする説もある。1125年か27年にヴャチェスラーフ・ヴラディーミロヴィチトゥーロフ公となっているので、ブリャチスラーフ・スヴャトポールチチがトゥーロフ公であったとすれば、それ以前に死んだのだろう。
 弟にイジャスラーフというのがいたが、これがブリャチスラーフ・スヴャトポールチチの死後トゥーロフを継いだとする説もある。とするとブリャチスラーフ・スヴャトポールチチの死はもう少し前になろう。

 なお、おそらくポーロツク系以外でブリャチスラーフという名が使われた唯一の例。

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