ダヴィド・イーゴレヴィチ
Давыд Игоревич
トムタラカーニ公 князь Тмутараканский (1081-83)
ドロゴブージュ公 князь Дорогобужский (1085、99-1113)
ヴラディーミル=ヴォルィンスキイ公 князь Владимирский (1087-99)
生:1055?
没:1112.05.25−ドロゴブージュ
父:ヴラディーミル=ヴォルィンスキイ公イーゴリ・ヤロスラーヴィチ (キエフ大公ヤロスラーフ賢公)
母:クーニグンデ (オルラミュンデ伯)
結婚:
& ? (トムタラカーニ公ロスティスラーフ・ヴラディーミロヴィチ)
子:
名 | 生没年 | 分領 | 結婚相手 | 生没年 | その親・肩書き | |
---|---|---|---|---|---|---|
母親不詳 | ||||||
? | フセーヴォロド | -1142 | ゴロドノ | アガーフィヤ | ヴラディーミル・モノマーフ | |
? | イーゴリ |
第7世代。
生年は不明だが、父の生年自体がどんなに早くとも1030年代前半なので、ダヴィド・イーゴレヴィチも1050年代後半の生まれであろう。
父の死(1160)は、ダヴィド・イーゴレヴィチがまだ幼児の頃。このため、特段の支配地(分領)を与えられなかった。
1054年の祖父ヤロスラーフ賢公の死以来、イジャスラーフ、スヴャトスラーフ、フセーヴォロドのヤロスラーヴィチ3兄弟がルーシを分割支配。ポーロツク公フセスラーフ・ブリャチスラーヴィチを例外として、3兄弟以外には分け前を与えなかった。実の甥も例外ではない。ロスティスラーフ・ヴラディーミロヴィチとボリース・ヴャチェスラーヴィチのふたりは、いずれもこの現状に不満を抱き、それぞれ1064年と1077年に伯父たちに対して «叛乱» を起こしている。いずれも1、2年で «鎮圧» されたが、ヤロスラーヴィチ3兄弟の内紛もからんで、ごたごたは収まりがつかなくなっていた。
1081年、ダヴィド・イーゴレヴィチは、同じく分領を持たないヴォロダーリ・ロスティスラーヴィチとともに、トムタラカーニから伯父キエフ大公フセーヴォロド・ヤロスラーヴィチの代官ラティボールを追い、自らその支配者となる。
1083年、ビザンティン帝国の支援を得た従兄弟オレーグ・スヴャトスラーヴィチが帰還。ハザールを破り、トムタラカーニを占領。ダヴィド・イーゴレヴィチとヴォロダーリ・ロスティスラーヴィチは逃亡した。
その後ダヴィド・イーゴレヴィチはキエフ方面でコンスタンティノープル商船を襲うなどしていたが、1084年、フセーヴォロド・ヤロスラーヴィチからドロゴブージュ(ヴォルィニ領内)を与えられる。これにヴラディーミル=ヴォルィンスキイ公ヤロポルク・イジャスラーヴィチが反発し、1085年、フセーヴォロド・ヤロスラーヴィチによりポーランドに追われた。ダヴィド・イーゴレヴィチはヴラディーミル=ヴォルィンスキイを与えられたが、1086年にヤロポルク・イジャスラーヴィチが帰還してフセーヴォロド・ヤロスラーヴィチと和解すると、再びドロゴブージュへ。同年のヤロポルク・イジャスラーヴィチの死後、改めてヴラディーミル=ヴォルィンスキイを与えられる。
1097年、リューベチでの諸公会議で、ダヴィド・イーゴレヴィチのヴォルィニ支配が確認された。ただしルーツクはチェルニーゴフ公ダヴィド・スヴャトスラーヴィチに与えられた。
会議の後、ダヴィド・イーゴレヴィチはキエフ大公スヴャトポルク・イジャスラーヴィチとともにキエフへ。テレボーヴリ公ヴァシリコ・ロスティスラーヴィチ(ヴォロダーリ・ロスティスラーヴィチの弟)と対立。ヴァシリコ・ロスティスラーヴィチをキエフに呼び寄せると、捕虜とし、ベールゴロドで目を抉り出し、ヴラディーミル=ヴォルィンスキイに監禁した。これに対してヴラディーミル・モノマーフ、ダヴィド & オレーグ・スヴャトスラーヴィチが、キエフに侵攻。スヴャトポルク・イジャスラーヴィチはかれらと講和し、ダヴィド・イーゴレヴィチに対する戦争を承諾した。ダヴィド・イーゴレヴィチはダヴィド・スヴャトスラーヴィチからルーツクを奪う。
1098年、ダヴィド・イーゴレヴィチはテレボーヴリに侵攻。ペレムィシュリ公ヴォロダーリ・ロスティスラーヴィチがこれを迎え撃ち、両者は講和。ダヴィド・イーゴレヴィチはヴァシリコ・ロスティスラーヴィチを釈放した。ヴァシリコ・ロスティスラーヴィチはテレボーヴリへ、ダヴィド・イーゴレヴィチはヴラディーミル=ヴォルィンスキイへ帰還する。しかし間もなく、ヴォロダーリ & ヴァシリコのロスティスラーヴィチ兄弟はヴォルィニに侵攻し、ヴラディーミル=ヴォルィンスキイを攻囲。ダヴィド・イーゴレヴィチは、部下としてヴァシリコ虐待の直接の責任者であった従士を引き渡すことで、ロスティスラーヴィチ兄弟と和解した。
1099年、かつての講和条件に従い、キエフ大公スヴャトポルク・イジャスラーヴィチがヴォルィニに侵攻。ダヴィド・イーゴレヴィチはポーランド王ヴワディスワフ1世・ヘルマンに救援を要請。ヴワディスワフ・ヘルマンはダヴィド・イーゴレヴィチに支援を約束するが、その後スヴャトポルク・イジャスラーヴィチとの同盟の方が利があると変心。ダヴィド・イーゴレヴィチはヴラディーミル=ヴォルィンスキイに立てこもり、スヴャトポルク・イジャスラーヴィチはこれを攻囲。ポーランドからの救援がないことを知ると、ダヴィド・イーゴレヴィチはヴラディーミル=ヴォルィンスキイを明け渡し、チェルヴェニへ。スヴャトポルク・イジャスラーヴィチはヴラディーミル=ヴォルィンスキイを息子ムスティスラーフに、ルーツクをスヴャトーシャ・ダヴィドヴィチに与える。また別の息子ヤロスラーフをハンガリー王カールマーンのもとに派遣し、ロスティスラーヴィチ兄弟と戦わせた。
情勢の変化により、ダヴィド・イーゴレヴィチとロスティスラーヴィチ兄弟は同盟。妻をペレムィシュリ公ヴォロダーリ・ロスティスラーヴィチのもとに残し、ダヴィド・イーゴレヴィチはポーロヴェツ人のもとへ。ポーロヴェツ軍を率いてハンガリー軍を打ち破り、ヤロスラーフ・スヴャトポールチチはポーランドに逃亡。ダヴィド・イーゴレヴィチとポーロヴェツ軍は勢いに乗ってヴラディーミル=ヴォルィンスキイを攻囲。ムスティスラーフ・スヴャトポールチチは戦に倒れる。キエフ大公スヴャトポルク・イジャスラーヴィチは軍を派遣し、ルーツク公スヴャトーシャ・ダヴィドヴィチと合流してヴラディーミル=ヴォルィンスキイへ。ポーロヴェツ軍は壊滅し、ダヴィド・イーゴレヴィチは逃亡した。
ダヴィド・イーゴレヴィチは再びポーロヴェツ軍を率い、今度はルーツクを攻囲。スヴャトーシャ・ダヴィドヴィチは抗うべからざるを見て、ダヴィド・イーゴレヴィチと講和してチェルニーゴフに逃亡。ルーツクを占領したダヴィド・イーゴレヴィチは、さらにヴラディーミル=ヴォルィンスキイを占領した。
1100年、ヴィティチェヴォで諸公会議。スヴャトポルク・イジャスラーヴィチ、ヴラディーミル・モノマーフ、チェルニーゴフ公ダヴィドとオレーグのスヴャトスラーヴィチ兄弟が会盟。ダヴィド・イーゴレヴィチはここに召喚され、諸公の決議として、ヴラディーミル=ヴォルィンスキイをヤロスラーフ・スヴャトポールチチに返還することを呑まされた。ダヴィド・イーゴレヴィチには、ブージュスク、チャルトルィースクその他若干の都市(ヴォルィニ領内)だけが残された。その後、ダヴィド・イーゴレヴィチにはスヴャトポルク・イジャスラーヴィチからドロゴブージュが与えられる。
年代記によれば、ヴラディーミル・モノマーフが主導し諸公が参加した1111年の対ポーロヴェツ人遠征には、ダヴィド・イーゴレヴィチも息子を連れて参加している(息子の名は記されていない)。
キエフに埋葬されている。
なお、Рыжов Константин. Монархи России. М., 2006 は妻を「ポーランド王ヴワディスワフ1世・ヘルマンの娘」としているが、ヴワディスワフ1世には該当しそうな娘はいない。