リューリク家人名録

ヴァシーリイ・ミハイロヴィチ

Василий Михайлович

ベリョーフ公 князь Белевский

生:?
没:?

父:ベリョーフ公ミハイール・ヴァシーリエヴィチベリョーフ公ヴァシーリイ・ロマーノヴィチ
母:?

結婚:?

子:

生没年分領結婚相手生没年その親・肩書き
母親不詳
1イヴァン-1523
2アンドレイ
3ヴァシーリイ

第18世代。スヴャトスラーヴィチ(オーリゴヴィチ)。

 家伝によれば、大公ヴァシーリイによりヴァシーリイ・ミハイロヴィチと弟フョードルはベリョーフから追われ、ヴォロクを与えられた。長くヴォロクに住んだが、その後改めて大公にベリョーフを与えられた。のちのバージョンによれば、兄弟にベリョーフを与えた大公ヴァシーリイとはヴァシーリイ・ドミートリエヴィチ(モスクワ大公ヴァシーリイ1世)だという。
 また兄弟の姉妹エフプラクシーヤの夫については、史料によってヴァシーリイ・ユーリエヴィチとされていたり、ヴァシーリイ・イヴァーノヴィチ・オボレーンスキイ公とされていたりして、よくわからない。どちらも «コソーイ» という添え名で知られているので、混同されているのだろう。

 しかし、ヴァシーリイ・コソーイにせよヴァシーリイ・オボレーンスキイ公にせよ、1440年代前後に活躍している。さらにヴァシーリイ・ミハイロヴィチの息子たちは1480年代後半から年代記に登場する。これらを勘案してみると、ヴァシーリイ・ミハイロヴィチがヴァシーリイ1世の治世(1389-1425)に生きていたとは考えずらく、その年代はヴァシーリイ2世の治世(1425-62)にこそ相応しい。

 とすると、ヴァシーリイ・ミハイロヴィチがベリョーフを失ったのは、おそらくウルグ=ムハンマドによるベリョーフ攻略(1437年)と関連があると思われる。おそらくベリョーフ公兄弟はタタールの侵攻を受けてモスクワに避難したのだろう。
 もっともこれには異説もあって、そもそもベリョーフ公兄弟はヴァシーリイ2世に臣従しており、ベリョーフを失ったのはかれらが幼少だったからとも言われる(ベリョーフはタタールとの国境に近く、事実ベリョーフを占領したウルグ=ムハンマドはここを拠点にモスクワ領を蹂躙している)。
 なお家伝は、大公ヴァシーリイが「失寵した」ベリョーフ公兄弟をベリョーフから「立ち退かせた」と記している。この点を重視すれば、そして兄弟の姉妹エヴプラクシーヤがヴァシーリイ・コソーイの妻であったとの説を採用すれば、1433年から35年までヴァシーリイ2世に敵対していたヴァシーリイ・コソーイの関係者として分領を没収されたのだとも考えられる。

 1459年、ベリョーフ公兄弟は、オドーエフ公イヴァン・ユーリエヴィチとともに、リトアニア大公カジミエラスと協定を結ぶ。協定の内容はほぼヴォロトィンスク公フョードル・リヴォーヴィチが17年前にカジミエラスと結んだものと同様。しかしここで、ベリョーフ公兄弟はイヴァン・ユーリエヴィチの年少の従属者として扱われている。

▲ページのトップにもどる▲

Copyright © Подгорный (Podgornyy). Все права защищены с 7 11 2008 г.

ロシア学事始
ロシアの君主
リューリク家
人名録
系図
人名一覧
inserted by FC2 system