セミョーン・ミハイロヴィチ
Семен Михайлович
グルーホフ・ノヴォシーリ公 князь Глуховский и Новосильский (1246-)
生:?
没:?
父:チェルニーゴフ公ミハイール・フセヴォローディチ (チェルニーゴフ公フセーヴォロド真紅公)
母:?
結婚:?
子:
名 | 生没年 | 分領 | 結婚相手 | 生没年 | その親・肩書き | |
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母親不詳 | ||||||
ミハイール | グルーホフ | |||||
アレクサンドル | -1326 | ノヴォシーリ | ||||
フセーヴォロド | ウスティーヴリ |
第12世代。スヴャトスラーヴィチ(オーリゴヴィチ)。
生年・没年から何からほとんどわかっていない。
長兄ロスティスラーフ・ミハイロヴィチが1220年代の生まれとされているので、セミョーン・ミハイロヴィチも、遅くとも1230年代には生まれていたと考えていいのではないだろうか。
1246年、父がサライで殺された。長兄ロスティスラーフ・ミハイロヴィチはすでにハンガリーに亡命しており、チェルニーゴフ公位は次兄ロマーン老公が継いだ。もっともチェルニーゴフ公領はモンゴルに破壊されており、ロマーン老公もチェルニーゴフではなくブリャンスクに居を構えた。
セミョーン等、年少の弟たちも分領をもらっているが、いずれもかつてのチェルニーゴフ公領の中心であった南西部ではなく、北東部である。すなわち、セミョーンのグルーホフこそノーヴゴロド=セーヴェルスキイの近郊であるが、その分領はオカー川上流域に広がっていた。ムスティスラーフのカラーチェフはブリャンスク近郊にあり、さらにそこから北へと領土を有している。ユーリイのトルーサなどはヴラディーミル大公領との境界にほど近い。
なお、家系図によればセミョーン・ミハイロヴィチの息子としてロマーンが挙げられている。しかしこのロマーンとは、ベリョーフスキイ家、ヴォロトィンスキイ家、オドーエフスキイ家の祖となった人物であり、1375年のトヴェーリ遠征に従軍している。世代的にとうていセミョーン・ミハイロヴィチの子とは考えられない。
このため、セミョーン・ミハイロヴィチとロマーンとの間に数世代が抜け落ちているものと考えられるが、その穴を埋めるためにミハイール・セミョーノヴィチだのセミョーン・ミハイロヴィチだのが考え出された。当然、ここでセミョーン・ミハイロヴィチの子として挙げたアレクサンドルにせよフセーヴォロドにせよ、史料上の裏づけはない。