リューリク家人名録

イヴァン・ミハイロヴィチ

Иван Михайлович Воротынский

ヴォロトィンスク公 князь Воротынский

生:?
没:1535

父:ヴォロトィンスク公ミハイール・フョードロヴィチヴォロトィンスク公フョードル・リヴォーヴィチ
母:?

結婚①:
  & アナスタシーヤ -1522 (イヴァン・ザハーリイン)

結婚②:
  & アンナ (ヴァシーリイ・シャストゥーノフ)

子:

生没年分領結婚相手生没年その親・肩書き
アナスタシーヤ・イヴァーノヴナと
ヴラディーミル-1553
アレクサンドル-1565
ミハイール1510-73

第19世代。スヴャトスラーヴィチ(オーリゴヴィチ)。

 1483年、叔父ドミートリイ & セミョーンとともに、リトアニア大公カジミエラスと協定を結ぶ。

 1493年、叔父ドミートリイ & セミョーンとともに、リトアニアを去り、モスクワ大公イヴァン3世大帝に仕える。モジャイスク公セミョーン・イヴァーノヴィチ(リトアニア大公に仕える)と激しく争う(もっともセミョーン・イヴァーノヴィチも1500年にはモスクワに寝返る)。1499年にはオドーエフ公とともにコゼリスクでクリム・タタール & コサック連合軍を破る。その後も精力的に対リトアニア戦争に従軍すると同時に、タタールの襲撃からロシア(つまりは自領)を護った。

 ヴァシーリイ3世の代になると、スモレンスクを巡る攻防戦で中心的な役割を演じる。
 1514年にスモレンスクが併合されると、再び南方防衛にまわされる。トゥーラ、スタロドゥーブ、トルーサ等の総督・軍司令官を歴任してクリム・タタール軍の侵略からモスクワを護った。しかし1521年、味方に必要な援軍を送らなかった咎で投獄される。
 1525年に釈放されると、再び南方防衛の最前線で活躍。オドーエフやセールプホフの総督を歴任した。
 1531年に失脚。その年の内に復帰し、オドーエフで軍を率いる。

 1534年、逮捕され、ベロオーゼロに投獄された。ヴァシーリイ3世死後のモスクワでの権力闘争に関与したのか?
 正確な没年は不明。1543年とする文献もあった。

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