ヴラディミルコ・ヴォロダーレヴィチ
Владимирко Володаревич
ズヴェニーゴロド公 князь Звенигородский (1124-29)
ペレムィシュリ公 князь Перемышльский (1129-53)
テレボーヴリ公 князь Теребовльский (1141-53)
ガーリチ公 князь Галицкий (1141-53)
生:1095・1104
没:1153.02
父:ペレムィシュリ公ヴォロダーリ・ロスティスラーヴィチ (トムタラカーニ公ロスティスラーフ・ヴラディーミロヴィチ)
母:?
結婚:1117
& ? (ハンガリー王カールマーン蔵書家王) ※そんな娘はいない?
子:
名 | 生没年 | 分領 | 結婚相手 | 生没年 | その親・肩書き | |
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ハンガリー王女と | ||||||
1 | ヤロスラーフ | -1187 | ガーリチ | オリガ | -1189 | ロストーフ=スーズダリ公ユーリイ・ドルゴルーキイ |
? | マリーヤ | ボレスワフ4世巻毛王 | 1125-73 | ポーランド王 | ||
? | エヴドキーヤ | ヘンリク | 1131-66 | サンドミェシュ公 |
第9世代。ガーリチ系。
1124年と25年に父ペレムィシュリ公ヴォロダーリと叔父テレボーヴリ公ヴァシリコが相次いで死去。兄(弟?)ロスティスラーフがペレムィシュリ、従兄弟のイヴァンがガーリチ、グリゴーリイがテレボーヴリ、そしてヴラディミルコ・ヴォロダーレヴィチがズヴェニーゴロドを支配した(1126年のグリゴーリイ死後はイヴァンがテレボーヴリも支配)。
1127年、ロスティスラーフと戦争を始める。しかしキエフ大公ムスティスラーフ偉大公の命により、和解。
1129年、ロスティスラーフ・ヴォロダーレヴィチが死去。ヴラディミルコ・ヴォロダーレヴィチはペレムィシュリを相続し、兄の遺児イヴァン・ロスティスラーヴィチにはズヴェニーゴロドを与えた。
1136年、ポーランド王ボレスワフ3世唇曲王の代官を務めていたハンガリー人が、ヴィスリツァをヴラディミルコ・ヴォロダーレヴィチに割譲する。しかしその後維持することはできなかった。
1141年、従兄弟イヴァン・ヴァシリコヴィチの死で、遺領テレボーヴリとガーリチをも支配。これにより、事実上ガリツィアを統一した。なお、この時居住地をズヴェニーゴロドからガーリチに移す。以後、唯一残ったズヴェニーゴロドを支配する甥イヴァン・ロスティスラーヴィチに対する圧迫を強める。
1140年代は、キエフ大公フセーヴォロド・オーリゴヴィチ、ポーランド王ヴワディスワフ2世亡命王、チェルニーゴフ公ヴラディーミル・ダヴィドヴィチ、スモレンスク公ロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチ、ノーヴゴロド公スヴャトポルク・ムスティスラーヴィチ等と対立し、ハンガリー王ゲーザ2世と同盟。
1144年、フセーヴォロド・オーリゴヴィチと戦争。しかしその弟イーゴリの要請により、和解した。
1145年、ガーリチ市民が甥ズヴェニーゴロド公イヴァン・ロスティスラーヴィチを招聘し、自らの公に。ヴラディミルコ・ヴォロダーレヴィチはガーリチを攻略し、反対派をことごとく虐殺、処刑した。そしてイヴァン・ロスティスラーヴィチを追放し、念願のガリツィア統一を成し遂げた。
なお、細かいことながら、この時までガーリチとは都市ガーリチのことで、この地域全体を指す特段の呼び名は存在しなかった(ガリツィアはガーリチが西欧で訛ったもので、13世紀以降につくられた)。しかしヴラディミルコ・ヴォロダーレヴィチがこの地方を統一し、ガーリチを首都としたことで、この地域全体をガーリチ公領と呼ぶことが定着していく。
ガーリチの統一を果たすと同時に、北隣のヴォルィニにも食指を伸ばし、その内紛に積極的に介入。
ちょうど1146年にキエフ大公フセーヴォロド・オーリゴヴィチが死に、跡目を巡る争いから、かつてヴラディミルコ・ヴォロダーレヴィチと敵対していた諸公が分裂。一方にはイジャスラーフとロスティスラーフのムスティスラーヴィチ兄弟にゲーザ2世、もう一方にはユーリイ・ドルゴルーキイに加え、ヴラディーミル・ダヴィドヴィチとスヴャトスラーフ・オーリゴヴィチの従兄弟(なおヴワディスワフ2世は王位を失っていた)。
ヴラディミルコ・ヴォロダーレヴィチは、ヴォルィニを狙う立場から、後者に加担した。
1150年、イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチがユーリイ・ドルゴルーキイをキエフから追う。ヴラディミルコ・ヴォロダーレヴィチは軍を率いて駆けつけ、ガーリチ軍との戦闘を嫌ったキエフ市民が、イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチに替えてユーリイ・ドルゴルーキイを再びキエフ大公に迎え入れた。
キエフを追われヴォルィニに帰還したイジャスラーフ・ムスティスラーヴィチは、ゲーザ2世に救援を要請。ゲーザ2世はガーリチに侵攻する。ヴラディミルコ・ヴォロダーレヴィチはハンガリー貴族や司教を買収し、ハンガリー軍を撤退させる。しかしその間、イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチはキエフに侵攻し、ユーリイ・ドルゴルーキイを追ってキエフを奪還していた。ヴラディミルコ・ヴォロダーレヴィチは、イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチの子ムスティスラーフがハンガリー軍を率いて父の援護にかけつけていることを知り、ドロゴブージュ近郊でこれを撃破。ムスティスラーフ・イジャスラーヴィチはルーツクに逃亡し、ハンガリー軍は四散した。
1152年、改めて南ルーシからユーリイ・ドルゴルーキイを追ったイジャスラーフ・ムスティスラーヴィチは、ゲーザ2世と同盟してガーリチに侵攻。ヴラディミルコ・ヴォロダーレヴィチは迎え撃つが、ペレムィシュリ近郊の戦いで大敗を喫する。ゲーザ2世と和解し、イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチに領土を割譲することを約束するが、その約束を果たさないまま死去。
なお、ポーランド王ボレスワフ4世巻毛王の妃マリアについては素性が必ずしもはっきりしない。ヴラディミルコ・ヴォロダーレヴィチの娘とする説もあるようだが、一般的にはスモレンスク公ロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチの娘とされているようだ。