リューリク・ロスティスラーヴィチ
Рюрик Ростиславич
ペレムィシュリ公 князь Перемышльский (1085-92)
生:?
没:1092
父:トムタラカーニ公ロスティスラーフ・ヴラディーミロヴィチ (ノーヴゴロト公ヴラディーミル・ヤロスラーヴィチ)
母:? (ハンガリー王女)
結婚:?
子:?
第8世代。ガーリチ系。
ロスティスラーヴィチ3兄弟の、おそらく長兄。もっともこれといった根拠はない。のちにガーリチ地方の中心都市ペレムィシュリを領有しているのが、唯一根拠らしい根拠。
長兄であるにせよないにせよ、1060年代に生まれたと考えられる(タティーシチェフは両親の結婚を1060年代初頭としている)。
父が死んだ1066年にはまだ10歳にもなっていなかったと思われ、父の領有していたトムタラカーニは当然人手に渡る。その後、3兄弟がどこでどのようにして育ったかは不明。ヤロポルク・イジャスラーヴィチのもとヴォルィニで暮らしていた、とする文献もあるが、1066年から78年までは、ヤロポルク・イジャスラーヴィチがヴォルィニを支配していたか否かはよくわからない。カルパティア山麓に支配地を獲得したとする文献もあるが、この地はのちのガーリチ、当時は広くヴォルィニの一部であったと思われる。
弟(?)ヴォロダーリ・ロスティスラーヴィチは1081年から活躍しているが、リューリク・ロスティスラーヴィチが年代記に登場するのは1084年になってから。兄弟とともにヤロポルク・イジャスラーヴィチとヴォルィニを争う。結局ロスティスラーヴィチ3兄弟は、1085年になって、キエフ大公フセーヴォロド・ヤロスラーヴィチから、ヴォルィニの隣、のちのガーリチをもらう。
のちのガーリチの地は、すでにヴラディーミル偉大公の時代にルーシの勢力圏に入っていたが、過去100年間独自の公が立てられたことがなかった。ロスティスラーヴィチ兄弟はこの地を3分割し、リューリクがペレムィシュリ、ヴォロダーリがズヴェニーゴロド、ヴァシリコがテレボーヴリをそれぞれ支配した(都市ガーリチが年代記に登場するのは1140年の記事)。
ロスティスラーヴィチ兄弟がなぜそもそもヴォルィニを狙ったかは不明だが、もし母親がハンガリー王女だったとするならば、ハンガリーの隣国だったからかもしれない(ヴォルィニとハンガリーの間にはガーリチがあるが、すでに述べたように、当時ここにはまだ独自の公が立てられていなかった)。
なお、ペレムィシュリを与えられて大人しくなったのか、その後リューリク・ロスティスラーヴィチの名は年代記から消える。
なお、1087年にヤロポルク・イジャスラーヴィチが殺されたが、殺害犯はリューリク・ロスティスラーヴィチのもとに逃亡し、庇護されたという。