リューリク家人名録

ロスティスラーフ・ヴラディーミロヴィチ

Ростислав Владимирович

トムタラカーニ公 князь Тмутараканский (1064-66)

生:1038
没:1066.02.03−トムタラカーニ

父:ノーヴゴロド公ヴラディーミル・ヤロスラーヴィチキエフ大公ヤロスラーフ賢公
母:?

結婚:
  & アンナ・ランカ (ハンガリー王アンドラーシュ1世 or ベーラ1世)?

子:

生没年分領結婚相手生没年その親・肩書き
母親不詳
1リューリク-1092ペレムィシュリ
2ヴォロダーリ-1124ペレムィシュリ
3ヴァシリコ-1124テレボーヴリ
ダヴィド・イーゴレヴィチ1055?-1113ドロゴブージュ公

第7世代。ガーリチ系始祖。

 父の生年が1020年。母親が誰だったかもわからず、よってロスティスラーフ・ヴラディーミロヴィチの生年を確定させる材料には欠けるが、理屈上は1030年代末以降、いつ生まれていてもおかしくはない。1038年というのも所詮は仮説にすぎない。

 1052年、父が死去。まだ幼年だった(と思われる)ロスティスラーフ・ヴラディーミロヴィチは、父に代わってノーヴゴロド公となった叔父イズャスラーフ・ヤロスラーヴィチの下、そのままノーヴゴロドにとどまったらしい。

 1054年に祖父ヤロスラーフ賢公が死去。長子相続の原則からすればロスティスラーフ・ヴラディーミロヴィチが祖父の後を継ぐべきであったが、当時のルーシではまだ長子相続制は採られておらず、叔父イズャスラーフ・ヤロスラーヴィチキエフ大公となった。ルーシはイズャスラーフスヴャトスラーフフセーヴォロドのヤロスラーヴィチ3兄弟が分割。まだ年少の実弟たちにすらほんの申し訳程度の領土しか与えなかったかれらが、ティーンエイジャーになったかならずの甥ロスティスラーフ・ヴラディーミロヴィチに分領を与えるはずもなかった。
 ただし、タティーシチェフは、ロスティスラーフ・ヴラディーミロヴィチは1054年にロストーフを、1057年にはヴラディーミル=ヴォルィンスキイを与えられたとしている。しかし年代記には1064年までロスティスラーフ・ヴラディーミロヴィチに関する記述は存在しておらず、領土を与えられなかったと考えた方が妥当ではないだろうか。そう考えた方が、1064年以降の行動の動機がはっきりする。
 ちなみに、ソロヴィヨーフは1064年にロスティスラーフ・ヴラディーミロヴィチが «ヴォルィニから» 逃亡した、としているが、年代記ははっきりと «ノーヴゴロドから» 逃亡したと記している。すなわち、ロスティスラーフ・ヴラディーミロヴィチは父の死後自前の領土を持たず、父が公であったノーヴゴロドで養育されていたということだろう。

 1064年、トムタラカーニへ赴き、グレーブ・スヴャトスラーヴィチを追い出して占領。この時ロスティスラーフ・ヴラディーミロヴィチを助けたのは、祖父と父のもとでノーヴゴロドの統治に携わったオストロミールの息子たちであったという。おそらく父の死後もノーヴゴロドに留まったロスティスラーフ・ヴラディーミロヴィチを、オストロミールの遺児たちが支えていたのだろう。
 叔父でグレーブの父、チェルニーゴフ公スヴャトスラーフ・ヤロスラーヴィチが出陣すると、降伏。しかしスヴャトスラーフ・ヤロスラーヴィチがチェルニーゴフに戻ると、再びトムタラカーニを支配。

 トムタラカーニは黒海の東岸に位置し、ロスティスラーフ・ヴラディーミロヴィチは周辺の北カフカース系諸民族を圧迫して勢力を拡大したらしい。
 ロスティスラーフ・ヴラディーミロヴィチの勢力に不安を覚えたヘルソネスのギリシャ人が、ロスティスラーフ・ヴラディーミロヴィチのもとに使節を派遣。ロスティスラーフ・ヴラディーミロヴィチはかれに毒殺されたという。

 なお、これまたタティーシチェフによれば、1060年代初頭にハンガリー王女と結婚した。これまた年代記に記述はなく、ハンガリーにもそれらしい王女は存在していない。

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