ロマーノフ家人名録

ヴィクトリヤ・フョードロヴナ (ヴィクトリア・メリタ)

Victoria Melita, Виктория Федоровна

イギリス王女 princess of Great Britain and Ireland
エディンバラ公女 princess of Edinburgh
ザクセン=コーブルク&ゴータ公女 Prinzessin von Sachsen-Coburg und Gotha (1893-)
ヘッセン&ライン大公妃 Großherzogin von Hessen und bei Rhein (1894-1901)
大公妃 великая княгиня (1907-)

生:1876.11.13/11.25−ヴァレッタ(マルタ)
没:1936.03.02(享年59)−アモルバハ(バイエルン、ドイツ)

父:エディンバラ公/ザクセン=コーブルク&ゴータ公アルフレッド 1844-1900 (イギリス女王ヴィクトリア)
母:マリーヤ・アレクサンドロヴナ大公女 1853-1920 (皇帝アレクサンドル2世・ニコラーエヴィチ

結婚①:1894−コーブルク(1901離婚)
  & エルンスト・ルートヴィヒ 1868-1937 ヘッセン&ライン大公(1892-1918)

結婚②:1905−テゲルンゼー(ザクセン、ドイツ)
  & キリール・ヴラディーミロヴィチ大公 1876-1938 (ヴラディーミル・アレクサンドロヴィチ大公

子:

生没年結婚結婚相手生没年その親・肩書き身分
エルンスト・ルートヴィヒと
1エリーザベト1895-1903
21900
キリール・ヴラディーミロヴィチ大公と
3マリーヤ1907-511925フリードリヒ・カール1898-1946ライニンゲン侯ドイツ貴族
4キーラ1909-671938ルイ・フェールディナント1907-94プロイセン王家(ドイツ皇帝家)当主ドイツ諸侯
5ヴラディーミル1917-921948レオニーダ1914-ゲオルギイ・アレクサンドロヴィチ・バグラティオーン=ムフランスキイ公ロシア貴族

イギリス王子アルフレッドの第三子(次女)。イギリス国教徒。
 皇帝アレクサンドル3世・アレクサンドロヴィチの姪。最後の皇帝ニコライ2世・アレクサンドロヴィチの従姉妹。
 «メリタ» というのは、生誕地マルタにちなんだもの。当時父はイギリスの地中海海軍総司令官としてマルタに駐屯していた。

 家族の間では «ダッキー Ducky» と呼ばれた。

 ザクセン=コーブルク&ゴータ公位の筆頭継承権者として、父は1889年にコーブルクへ。一家もともに引っ越す。以後、ヴィクトリアたちはイギリスを嫌う母により «ドイツ化» を強制され、信仰もイギリス国教会からルター派へと変えられた。

 1891年、叔父パーヴェル・アレクサンドロヴィチ大公の妃アレクサンドラ・ゲオルギエヴナ大公妃の葬儀に参列するためサンクト・ペテルブルグへ。
 この時、ヴィクトリアはキリール・ヴラディーミロヴィチ大公と出会い、互いに惹かれあうが、正教会の教会法が従兄弟同士の結婚を禁じているため、ふたりの関係はそれ以上発展しなかった。

 エルンスト・ルートヴィヒとの結婚は祖母ヴィクトリア女王にあつらえられたもので、ヴィクトリアもエルンスト・ルートヴィヒも乗り気ではなかったが、ヴィクトリア女王の意向には逆らえなかった。1894年、ふたりは結婚。
 ちなみに結婚式の当日、エルンスト・ルートヴィヒの妹アリックスが、ヴィクトリアの従兄弟ニコライ2世からのプロポーズを受け入れた。

 しかしこのような結婚がうまく行くはずもなく、特にエルンスト・ルートヴィヒが大公(君主)としての職務を優先してヴィクトリアを顧みず、逆にヴィクトリアが大公妃としての公的な勤めをおろそかにしたことから、ふたりの関係は悪化の一途をたどった。
 もともとエルンスト・ルートヴィヒは同性愛者と言われており(ただし確証はなさそう)、一方でヴィクトリアは難しい性格だったようで、エルンスト・ルートヴィヒとの喧嘩でも大声でヒステリカルにわめき、時には手を出すこともあったらしい。

 1901年、ヴィクトリア女王が死ぬと、エルンスト・ルートヴィヒとヴィクトリアは離婚。離婚後は母とともに南仏に居住。

 自由な身になったヴィクトリアと独身を貫いていたキリール・ヴラディーミロヴィチ大公との関係は急速に進み、1905年、ふたりは結婚。皇帝ニコライ2世は許可を与えなかったばかりか、キリール・ヴラディーミロヴィチ大公から皇族としての権利と軍の階級を剥奪。ヴィクトリアを大公妃とは認めなかった。結婚式にも、母マリーヤ・アレクサンドロヴナ大公女は参列したが、キリール・ヴラディーミロヴィチ大公の父ヴラディーミル・アレクサンドロヴィチ大公をはじめとするそれ以外のロマーノフ一族は欠席した。
 ヴィクトリアはルター派信仰を保ったが、結婚式は正教の教会で挙げられた。
 ふたりはパリで、それぞれの両親からの仕送りに頼って生活した。

 1907年、ヴィクトリアは正教に改宗。ニコライ2世キリール・ヴラディーミロヴィチ大公とヴィクトリヤの結婚を認め、ヴィクトリヤに大公妃の称号を与えた。。当然ふたりの娘にも公女の称号と権利が与えられている。
 1909年には最終的にキリール・ヴラディーミロヴィチ大公に皇族としての権利と軍の階級を戻した。1910年、ふたりはロシアに。

 しかし、ニコライ2世が認めても、皇妃アレクサンドラ・フョードロヴナはヴィクトリヤ・フョードロヴナ大公妃を認めることはできなかっただろう。アレクサンドラ・フョードロヴナにとってみればヴィクトリヤ・フョードロヴナ大公妃は、ただでさえ離婚という破廉恥な行為を働いたというだけでなく、兄を棄てた女であり、兄の同性愛者説を流した張本人であったからだ。こうして、もともとキリール・ヴラディーミロヴィチ大公の母マリーヤ・パーヴロヴナ大公妃アレクサンドラ・フョードロヴナと敵対しており、ヴラディーミル・アレクサンドロヴィチ大公と甥の関係も緊張したものであったところに加えて、ヴィクトリヤ・フョードロヴナ大公妃の存在は、ニコライ2世一家とヴラディーミル大公一家との関係をさらに悪化させるものであったものと想像される。

 第一次世界大戦ではヴィクトリヤ・フョードロヴナ大公妃は義母マリーヤ・パーヴロヴナ大公妃とともに看護活動の組織や物資の調達・支援などで活躍した。

 二月革命勃発後、ヴィクトリヤ・フョードロヴナ大公妃は臨時政府の許可を得てフィンランドに亡命。そこでヴラディーミロヴィチ待望の男子を出産した。十月革命の後も、白衛軍が勝利する可能性のある間、つまりキリール・ヴラディーミロヴィチ大公が皇帝となる可能性のある間はフィンランドにとどまり続けた。しかしロシアから独立を果たしたフィンランドはロシアに攻め込むことはせず(ただしカレリアは奪った)、ニコライ・ユデーニチに率いられた北西部の白衛軍も一時はペトログラードを脅かしたものの赤軍に敗れ、ヴィクトリヤ・フョードロヴナ大公妃の親族のイギリスも頼みにならず、ボリシェヴィキー権力は確立された。
 ヴィクトリヤ・フョードロヴナ大公妃は家族とともに、コーブルクへ。

 1922年、誕生したばかりのナチスに共感し(ソ連政府を倒し帝政をロシアに復活させる力になると考えたようだ)、資金援助も行っている。
 その後フランスのサン=ブリアックに移住。夫を皇帝とするために様々な活動を行った。
 1936年、孫娘の洗礼に出席した際に心臓発作に襲われ、娘婿ライニンゲン侯の居城アモルバハにて死去。コーブルクの実家の墓地に埋葬された。
 1995年、ヴィクトリヤ・フョードロヴナ大公妃と夫の遺骸はサンクト・ペテルブルクのペトロパーヴロフスキイ大聖堂脇の «大公霊廟» に改葬された。

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