タティヤーナ・コンスタンティーノヴナ
Татьяна Константиновна
公女 княжна императорской крови
公妃 княгиня (1911-21)
生:1890.01.11/01.23−サンクト・ペテルブルグ
没:1979.08.28(享年89)−イェルサレム(イスラエル)
父:コンスタンティーン・コンスタンティーノヴィチ大公 1858-1915 (コンスタンティーン・ニコラーエヴィチ大公)
母:エリザヴェータ・マヴリーキエヴナ大公妃 1865-1927 (ザクセン=アルテンブルク公モーリッツ)
結婚①:1911−パーヴロフスク
& コンスタンティーン・アレクサンドロヴィチ・バグラティオーン=ムフランスキイ公 1889-1915
結婚②:1921−ジュネーヴ
& アレクサンドル・ヴァシーリエヴィチ・コロチェンツェフ 1877-1922
子:
名 | 生没年 | 結婚 | 結婚相手 | 生没年 | その親・肩書き | 身分 | |
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バグラティオーン公と | |||||||
1 | テイムラーズ | 1912-92 | 1940 | エレナ | 1919-46 | ステファン・ラチチ | |
1949 | イリーナ | 1926- | セルゲイ・チェルヌィショーフ=ベゾブラーゾフ | ||||
2 | ナターリヤ | 1914-84 | 1944 | サー・チャールズ・ヘッバン・ジョンストン | 1912-86 | イギリス貴族 |
コンスタンティーノヴィチ。コンスタンティーン・コンスタンティーノヴィチ大公の第三子(長女)。
皇帝ニコライ2世・アレクサンドロヴィチの又従姉妹。ギリシャ王コンスタンティノス1世(1868-1923)の従姉妹。
コンスタンティーン・バグラティオーン=ムフランスキイ公とはパーヴロフスクで出会う。
この結婚には両親が反対し(貴賎結婚にあたるため)、父の命令でコンスタンティーン・バグラティオーン=ムフランスキイ公は故郷ティフリス(現トビリシ)に戻された。タティヤーナ・コンスタンティーノヴナ公女は文字通り恋煩いで寝込んでしまったという。結局両親も折れて、ふたりの結婚を認めた。
ちなみにコンスタンティーン・バグラティオーン=ムフランスキイ公は正教徒だったので、宗教上の問題はなかった。
1911年、コンスタンティーン・バグラティオーン=ムフランスキイ公と結婚。
この結婚は、ロマーノフ家の女性が臣下(ロシア貴族)と結婚した3例目(ツァレーヴナ・プラスコーヴィヤ・イヴァーノヴナ、マリーヤ・ニコラーエヴナ大公女に次ぐ)。マリーヤ・ニコラーエヴナ大公女とストローガノフ伯との結婚が皇帝の承認を得ない秘密結婚であったのに対して、皇帝の承認を得た上で臣下と結婚した2例目となる。しかしツァレーヴナ・プラスコーヴィヤの例はピョートル大帝時代で、まだ皇族の女子が結婚すること自体が珍しい時期で、決して先例にはならない(臣下と結婚してはならないという規則もなかった)。
しかも、大公ではないロマーノフ一族の結婚としては同年の長兄ヨアン・コンスタンティーノヴィチ公とエレーナ・ペトローヴナ公妃の結婚に次いで2例目だが、エレーナ・ペトローヴナ公妃はセルビア王女であり、どこからも文句の出ようのない結婚相手であった。
こうした事情に加え、のちにヴラディーミル・キリーロヴィチ公の結婚とからんで、バグラティオーン=ムフランスキイ公家が «ふさわしい家柄» かどうか、バグラティオーン=ムフランスキイ公との結婚が貴賎結婚にあたるか否かが議論の的となることもあって、この時の皇帝ニコライ2世の対応が様々検討されている。
父の日記によると、ニコライ2世は、バグラティオーン家は元王家であって貴賎結婚とはならない、と返答してきたらしい。
アレクサンドル・ミハイロヴィチ大公によると、当時、皇帝パーヴェル・ペトローヴィチの定めた規定を厳格に遵守していると結婚相手がいなくなる、として、大公たちの間に «ふさわしい家柄» の定義を緩和するようニコライ2世に提案する者があったらしい。ニコライ2世はこれを拒否した。かれの性格を考えるとさもありなん。
いずれにせよ、タティヤーナ・コンスタンティーノヴナ公女とコンスタンティーン・バグラティオーン=ムフランスキイ公との結婚はニコライ2世の承諾を得、しかもその参列も得て行われた。
しかしそれと同時にタティヤーナ・コンスタンティーノヴナ公女は、この結婚から生まれた子供たちの皇位継承権を放棄する書類を提出している。これは逆に言えば、この結婚から生まれた子供たちには皇位継承権が認められるということであり、それはすなわちこの結婚が貴賤結婚ではなかったということになる。あるいはただ単に万一を考えた措置だったのかもしれないが。
第一次世界大戦の勃発とともに、コンスタンティーノヴィチを不幸が襲う。1914年、弟オレーグ・コンスタンティーノヴィチ公が戦死。続いて1915年、夫コンスタンティーン・バグラティオーン=ムフランスキイ公が戦死し、父が病死。
コンスタンティーン・バグラティオーン=ムフランスキイ公は当初第一近衛騎兵師団に所属していたが、志願して歩兵に転向(士官が足りなかった)。南西戦線にまわされ、リヴォーフ近郊で敵弾に倒れた。
グルジアで夫を埋葬した後、タティヤーナ・コンスタンティーノヴナ公女は叔父ドミートリイ・コンスタンティーノヴィチ大公とともにストレーリナのコンスタンティーン宮殿に住む。
十月革命後、1918年にロマーノフ家の男子が国内流刑になると、ドミートリイ・コンスタンティーノヴィチ大公はヴォーログダに送られる。タティヤーナ・コンスタンティーノヴナ公女はふたりの子を連れてこれに同行。しかし、ニコライ2世一家処刑の報が届くと、タティヤーナ・コンスタンティーノヴナ公女は子供たちとともにペトログラードに帰還。その直後、ドミートリイ・コンスタンティーノヴィチ大公もペトログラードに戻され、ЧК(秘密警察)の監獄に収監された。すでにロマーノフ一族の宮殿は接収されていたため、タティヤーナ・コンスタンティーノヴナ公女と子供たちは普通のアパートに住んだ。
1918年10月、スウェーデン王妃ヴィクトリア(オリガ・フョードロヴナ大公妃の姪)の要請で、ボリシェヴィキーはコンスタンティーノヴィチの女性(母エリザヴェータ・マヴリーキエヴナ大公妃、タティヤーナ・コンスタンティーノヴナ公女、妹ヴェーラ・コンスタンティーノヴナ公女、弟ゲオルギイ・コンスタンティーノヴィチ公)のスウェーデンへの亡命を認めた。しかしタティヤーナ・コンスタンティーノヴナ公女はドミートリイ・コンスタンティーノヴィチ大公の世話をするため子供たちとともに残留。
ロマーノフ一族を巡る情勢は悪化の一途を辿り、ついに1919年1月、ドミートリイ・コンスタンティーノヴィチ大公はほかのロマーノフ家の大公たちとともにペトロパーヴロフスカヤ要塞でボリシェヴィキーに処刑された。
一貫してドミートリイ・コンスタンティーノヴィチ大公の世話をしてきたその元副官アレクサンドル・コロチェンツェフ大佐は、ドミートリイ・コンスタンティーノヴィチ大公の遺命を受けて、タティヤーナ・コンスタンティーノヴナ公女と子供たちを連れて国外脱出。
タティヤーナ・コンスタンティーノヴナ公女とアレクサンドル・コロチェンツェフ大佐は当初キエフ、オデッサを経由してルーマニアへ逃亡。そこからスイスへ。
スイスでタティヤーナ・コンスタンティーノヴナ公女はアレクサンドル・コロチェンツェフ大佐と結婚するが、数ヶ月後、夫はジフテリアで死去。
以後、タティヤーナ・コンスタンティーノヴナ公女はスイスに居住(どうやって生計を立てていたのだろう?)。
1946年、ジュネーヴで修道女となる(修道名タマーラ)。イェルサレムに赴き、そこで正教の修道院に入った。