セルゲイ・ヴァシーリエヴィチ・サルトィコーフ
Сергей Васильевич Салтыков
生:1726
没:?
父:?
母:?
愛人:エカテリーナ・アレクセーエヴナ大公妃 1729-96
結婚:?
子:?
ロシア貴族。正教徒。
女帝エカテリーナ2世・アレクセーエヴナの最初の愛人。
ツァリーツァ・プラスコーヴィヤ・サルトィコーヴァの一族だが、ほとんどつながりはない。
1752年頃、エカテリーナ・アレクセーエヴナ大公妃の(最初の)愛人となる。一説によると、世継ぎであるピョートル・フョードロヴィチ大公とエカテリーナ・アレクセーエヴナ大公妃の間に子が生まれないことに業を煮やした女帝エリザヴェータ・ペトローヴナにより、エカテリーナ・アレクセーエヴナ大公妃の愛人としてあてがわれたとも言われる。
エカテリーナ・アレクセーエヴナ大公妃の生んだ最初の子パーヴェル・ペトローヴィチ大公の実の父親はセルゲイ・サルトィコーフ、というのは誰もが知っている説だし、エカテリーナ・アレクセーエヴナ大公妃自身がのちにそのことを強く示唆してもいる。とはいえ、実証されたわけではない。
1755年、外交官としてハンブルクに派遣され、エカテリーナ・アレクセーエヴナ大公妃との関係は終わる。
すでに1754年に待望の跡継ぎパーヴェル・ペトローヴィチ大公が誕生しているし、女帝エリザヴェータ・ペトローヴナにとっては(あるいはエカテリーナ・アレクセーエヴナ大公妃にとっても)用済みだったのかもしれない。
その後、パリ、ドレスデンに派遣される。
没年も両親もわかっていないし、エカテリーナ・アレクセーエヴナ大公妃が女帝となった後も、外国から呼び戻されたとか宮廷に現れたとかいう話はないので、あるいはすでに死んでいたのかもしれない。
そうでなかったとしたら、要するにエカテリーナ2世にとってはもはや «どうでもいい存在» になっていた、ということなのだろう。それどころか、そもそも最初から «どうでもいい存在» であったのかもしれない。
後年に書かれたエカテリーナ2世の回想録にはかなりのバイアスがかかっていると思うのだが、この中でエカテリーナはセルゲイ・サルトィコーフについて特段のコメントを残していないし、そもそも関係の始まりも女官にあてがわれたみたいなことを書いている。所詮は単なる種馬でしかなかったということか。