ロマーノフ家人名録

ロマーン・ペトローヴィチ

Роман Петрович

князь императорской крови

生:1896.10.05/10.17−ペテルゴーフ
没:1978.10.23(享年82)−ローマ(イタリア)

父:ピョートル・ニコラーエヴィチ大公 1864-1931 (ニコライ・ニコラーエヴィチ «スタールシー» 大公
母:ミリツァ・ニコラーエヴナ大公妃 1866-1951 (モンテネグロ王ニコラ1世)

結婚:1921−カープ・ダンティーブ(フランス)
  & プラスコーヴィヤ・ドミートリエヴナ 1901-80 (ドミートリイ・セルゲーエヴィチ・シェレメーテフ伯)

子:

生没年結婚結婚相手生没年その親・肩書き身分
プラスコーヴィヤ・シェレメーチェヴァと
1ニコライ1922-1952スヴェヴァ1930-ワルフレード・デッラ・ゲラルデスカ伯イタリア貴族
2ドミートリイ1928-1959ヨハンナ1936-89アクセル・フォン・カウフマンデンマーク人
1993ドーリット1942-エーリク・レーヴェントロウデンマーク人

ニコラーエヴィチ。ピョートル・ニコラーエヴィチ大公の第二子(長男)。
 皇帝ニコライ2世・アレクサンドロヴィチの又従兄弟。

 父も肺結核を患っていたが、あるいはその遺伝か、ロマーン・ペトローヴィチ公も幼少時より肺が弱かった。
 もっとも、幼少より肺をやられるのはロマーノフ家の宿痾であった。おそらく北国の寒さ、サンクト・ペテルブルグの湿気の高い気候、さらにはあるいは遺伝的なものも原因だったのかもしれない。

 第一次世界大戦に従軍した最後の世代。
 1916年、キエフの工兵アカデミーを卒業したロマーン・ペトローヴィチ公は(父を継いで工兵のトップになることが期待されたのだろうか)、伯父ニコライ・ニコラーエヴィチ «ムラードシイ» 大公や父のいたカフカーズ戦線の部隊に配属される。

 ロシア革命後は、両親や伯父たちと行動を共にする。1919年にロシアから出国。その後ローマなどを経て、最終的にフランスに落ち着いた。

 1931年に父が、1935年に伯母アナスタシーヤ・ニコラーエヴナ大公妃が死去。1936年、母や子供たちとともに、叔母イェレナ(イタリア王ヴィットーリョ・エマヌエーレ3世妃)を頼ってローマへ。
 ヴィットーリョ・エマヌエーレの甥という立場もモノを言ったのだろう。1941年、ユーゴスラヴィアを解体したヒトラーによって創設されたモンテネグロの王位を提供される。しかしロマーン・ペトローヴィチ公はこれを拒否。

 1943年にムッソリーニを追放して連合国側に寝返ったイタリアにナチス・ドイツが侵攻。ロマーン・ペトローヴィチ公一家はスイスに逃亡するなどの苦難も味わった。
 連合軍の勝利とともにローマに帰還するが、今度は1947年に国民投票で王制が廃止されると、イタリア王家とともにエジプトに亡命。
 とはいえ、ロマーン・ペトローヴィチ公一家はイタリアから排斥される立場でもなかったので、やがて再びイタリアに舞い戻っている。以後、ロマーン・ペトローヴィチ公は死ぬまでイタリアで暮らした。

 父や伯父と同様に、キリール・ヴラディーミロヴィチ大公ヴラディーミル・キリーロヴィチ公の皇位継承を認めていなかった。

 ローマの埋葬されている。

▲ページのトップにもどる▲

Copyright © Подгорный (Podgornyy). Все права защищены с 7 11 2008 г.

ロシア学事始
ロシアの君主
ロマーノフ家
人名録
系図
人名一覧
inserted by FC2 system