ロマーノフ家人名録

オリガ・コンスタンティーノヴナ

Ольга Константиновна, Όλγα Κωνσταντίνοβνα ιης Ρωσίας

大公女 великая княжна
ギリシャ王妃 Βασίλισσα της Ελλάδας(1867-1913)

生:1851.08.22/09.03−パーヴロフスク
没:1926.06.18(享年74)−ポー(フランス)

父:コンスタンティーン・ニコラーエヴィチ大公 1827-92 (皇帝ニコライ1世・パーヴロヴィチ
母:アレクサンドラ・イオシフォヴナ大公妃 1830-1911 (ザクセン=アルテンブルク公ヨーゼフ)

結婚:1867−サンクト・ペテルブルグ
  & ゲオルギオス1世 1845-1913 ギリシャ王(1863-1913)(デンマーク王クリスティアン9世)

子:

生没年結婚結婚相手生没年その親・肩書き身分
ゲオルギオス1世と
1コンスタンティノス (ギリシャ王1世)1868-19231889ゾフィーア1870-1932ドイツ皇帝フリードリヒ3世ドイツ諸侯
2ゲオルギオス1869-19571907マリー1882-1962ロラン・ボナパルト公フランス皇家
3アレクサンドラ1870-911889パーヴェル大公1860-1919皇帝アレクサンドル2世ロマーノフ家
4ニコラオス1872-19381902エレーナ大公女1882-1957ヴラディーミル・アレクサンドロヴィチ大公ロマーノフ家
5マリア1876-19401900ゲオルギイ大公1863-1919ミハイール・ニコラーエヴィチ大公ロマーノフ家
1922ペリクレス・イオアンニデス1881-1965ギリシャ人
6オルガ1881
7アンドレアス1882-19441903アリス1885-1969バッテンベルク公ルートヴィヒドイツ諸侯
8クリストフォロス1888-19401920アナステイジア1883-1923ウィリアム・チャールズ・ステュアート
1929フランソワーズ1902-53ギーズ公ジャン・ドルレアンフランス王族

コンスタンティーノヴィチ。コンスタンティーン・ニコラーエヴィチ大公の第二子(長女)。
 皇帝アレクサンドル3世・アレクサンドロヴィチの従姉妹。

 ギリシャでは1862年にヴィッテルスバハ家(バイエルン王家)のオトンが廃位され、列強が新たな王探しに奔走した結果、ゲオルギオスが選ばれた。当時その父クリスティアンはまだ王ではなかったが、姉アレクサンドラはイギリス王太子アルバートとの婚約が決まっていた(ちなみに妹ダグマールがロシア皇太子ニコライ・アレクサンドロヴィチ大公と婚約するのは1864年)。
 1863年、挨拶にサンクト・ペテルブルグを訪れたゲオルギオスは、まだ12歳のオリガ・コンスタンティーノヴナ大公女と出会う。
 1867年にいまや皇太子妃となった妹に会いにやってきた時オリガ・コンスタンティーノヴナ大公女と再会したゲオルギオスは、その年の内に結婚した。一応お互いに気に入っての結婚だったようだが、政略的にはこの上なく好都合な恋愛であった。

 オリガ・コンスタンティーノヴナ大公妃は決して美人ではないが、特に晩年には王妃然とした貫禄と風格が備わっている。国民にも人気があり、慈善事業に力を注いだ。

 聖書の現代語訳を推進。当時ギリシャでは古代ギリシャ語の聖書がそのまま使われており、そのため国民のほとんどが読めなかった。オリガ・コンスタンティーノヴナ大公女は現代ギリシャ語への翻訳を自ら提唱し、推進した。しかしこれは、古代ギリシャ語の聖書に固執する保守的な階層からの反発を浴び、1901年に出版された際には正教会からの承認を得られなかった。それどころか現代語訳を冒涜であるとして、関係者、一部からは王妃オリガ・コンスタンティーノヴナ自身の破門要求すら上がり、暴動も勃発する事態となった。結局現代語訳は回収され、流通は禁じられた。

ちなみにロシアで聖書の現代ロシア語訳が初めて刊行されたのは1819年(福音書だけだが)。その後1822年には新約全体が翻訳された。それまでは教会スラヴ語訳が10世紀の改宗以来使われていた。この時も現代ロシア語訳は正教会から猛烈な反発を浴びせられ、1826年には発禁処分となっている。再刊されたのは1862年。
 たとえばドイツではマルティン・ルターによるドイツ語訳が1522年、イギリスでは英語訳が1535年に出ている(なおいわゆる «欽定訳(キング・ジェイムズ・ヴァージョン)» は1611年)。

 1913年、夫が暗殺され、長男コンスタンティノス1世が即位。以後ギリシャは10年にわたる混乱期を迎えるが、オリガ・コンスタンティーノヴナ大公女は主にロシア(父の所領パーヴロフスク)に住んだ。
 コンスタンティノスの妃はドイツ皇帝ヴィルヘルム2世の妹で、コンスタンティノス自身ドイツで学びプロイセン軍に勤務した経験もあって、ギリシャ王室は親独派が優勢を占めることになった。独露間の緊張が高まってきた時期でもあり、オリガ・コンスタンティーノヴナ大公女も宮廷に居づらくなったのかもしれない。
 あるいはそんなこととは無関係だったかもしれない。もともと、外国に嫁いだロマーノフ家の娘たちの中でも、オリガ・コンスタンティーノヴナ大公女は特に強くロシアとのつながりを保っていた(特に兄や弟、その子たちとは緊密なつながりを保った)。王太后となったことで、肩の荷を降ろした気分だったのかもしれない。

 第一次世界大戦下のギリシャではコンスタンティノスが親英仏派のヴェニゼロス内閣と対立し、革命、国家分裂の危機に直面して1917年に退位。同じく親独派の長男ゲオルギオス(1890-1947)ではなく、次男アレクサンドロス(1893-1920)が英仏の圧力で王となった。
 まさにこの時、ロシアでは二月革命が勃発。オリガ・コンスタンティーノヴナ大公女もこれに巻き込まれた。1918年、義妹(エリザヴェータ・マヴリーキエヴナ大公妃)とその子たちと辛うじて国外脱出に成功する。
 その後、ギリシャに帰国。

 1920年、アレクサンドロスが死ぬと、三男パウロス(1901-64)は、父コンスタンティノス1世や長兄ゲオルギオスを差し置いて即位はできないと、王位継承を拒否。英仏との同盟を推進して王権と対立していたヴェニゼロス内閣は選挙で敗北。王もおらず指導力を発揮できる首相もいない状況で、オリガ・コンスタンティーノヴナ大公女が一時的に摂政となった(1ヶ月間)。やがてコンスタンティノス1世が帰国し復位。
 ヴェルサイユ条約で領土拡大の夢が叶えられなかったギリシャ国民は英仏に失望し、それがコンスタンティノスの復位につながった。この気分そのままにギリシャはトルコに宣戦布告。しかしギリシャは敗北し、わずかに獲得した領土まで失うことになった。
 1922年、軍の改革派の圧力でコンスタンティノスは2度目の退位。長男ゲオルギオス2世が即位するが、1923年、国外逃亡。1924年、ギリシャは共和国となった。

 オリガ・コンスタンティーノヴナ大公女はフランスに亡命し、当地で死去。その後ゲオルギオス2世一家の亡命していたイタリアで埋葬されるが、1935年に王政復古が成ると、タトイに再埋葬された。

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