ニコライ・ロマーノヴィチ・ロマーノフ
Николай Романович Романов
公 князь
生:1922.09.26−カープ・ダンティーブ(フランス)
没:(存命)
父:ロマーン・ペトローヴィチ公 1896-1978 (ピョートル・ニコラーエヴィチ大公)
母:プラスコーヴィヤ・ドミートリエヴナ 1901-80 (ドミートリイ・セルゲーエヴィチ・シェレメーテフ伯)
結婚:1952−カンヌ(フランス)
& スヴェヴァ 1930- (ワルフレード・デッラ・ゲラルデスカ伯)
子:
名 | 生没年 | 結婚 | 結婚相手 | 生没年 | その親・肩書き | 身分 | |
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スヴェヴァと | |||||||
1 | ナターリヤ | 1952- | 1973 | ジュセッペ・コンソーロ | 1948- | イタリア人 | |
2 | エリザヴェータ | 1956- | 1983 | マウーロ・ボナチーニ | 1950- | イタリア人 | |
3 | タティヤーナ | 1961- | 1983 | ジャンバティスタ・アレッサンドリ | 1958- | イタリア人 | |
1998 | ジャンカルロ・ティロッティ | 1947- | イタリア人 |
ニコラーエヴィチ。ロマーン・ペトローヴィチ公の第一子(長男)。
両親の結婚は貴賎結婚にあたるため、本来ニコライ・ロマーノヴィチは皇族としての権利を持たない。もっともそれを言ったら、ロマーノフの姓を名乗ることも公を称することもできないはず。
幼少期はカープ・ダンティーブの祖父母のもと、純ロシア的環境で育てられた(ユリウス暦を使用していた。そのためニコライ公は現在でもユリウス暦を使用しているらしい)。
1935年に大伯母アナスタシーヤ・ニコラーエヴナ大公妃が死ぬと、祖父母の世代で残ったのは祖母ミリツァ・ニコラーエヴナ大公妃だけとなった。このためミリツァ・ニコラーエヴナ大公妃は1936年、家族を連れて、姉のイタリア王妃エレーナを頼ってローマに移住した。
一家はその関係で、ローマではイタリア王族として遇された。
ニコライ・ロマーノヴィチ公は当初はイタリア海軍に入ろうとしたらしいが、近視ゆえに断念。
1943年にナチス・ドイツがイタリアを占領すると、ニコライ・ロマーノヴィチ公たちはスイスに逃亡。連合軍の勝利とともに、再びイタリアに帰還する。
しかし1947年、イタリアで国民投票が行われて王制が否決されると、イタリア王族とともにエジプトに亡命。
しかしニコライ・ロマーノヴィチ公はその後両親とともにイタリアに舞い戻っており、子供たちはいずれもローマで誕生し、イタリアに居住している。ニコライ・ロマーノヴィチ公自身もイタリアに住んでいたが、2000年時点ではスイスに居住。
ちなみに、生活費をみてくれる親族を失った第二次世界大戦後は、民間企業に勤める。しかし結婚相手のスヴェヴァの実家がトスカーナの金持ち(土地持ち)だったので、結婚後は裕福な暮らしを送ることができた。その代わり土地の経営にしばられ、好きな歴史研究も続けられなかった。
父の構想を受け継ぎ、1979年にロマーノフ家協会 Romanov Family Association/Объединение членов рода Романовых を創設。自身は副会長となる。
1982年に妻の実家の土地を売り払って以後は歴史研究に没頭。
1989年、ヴァシーリイ・アレクサンドロヴィチ公の死で、ロマーノフ家協会の会長職に就く。
1992年のヴラディーミル・キリーロヴィチ公の死後は、皇位継承権筆頭であることを主張している。もっとも、権利ナンバー1を主張しているだけで、皇位継承そのものは主張していない(帝制を復活させるか否か、復活させるとして誰を皇帝とするか、はロシア国民自身が決めるべきである、としている)。