ニキータ・イヴァーノヴィチ・ロマーノフ
Никита Иванович Романов
ボヤーリン боярин (1645-)
生:1607?
没:1654.12.21/12.31(享年47?)
父:イヴァン・ニキーティチ -1640 (ニキータ・ロマーノヴィチ・ユーリエフ=ザハーリイン)
母:ウリヤーナ・フョードロヴナ -1650
結婚:?
子:なし
生年から何から、詳細は一切不明。
ツァーリ・ミハイール・フョードロヴィチの従兄弟。
父はツァーリ・ミハイール・フョードロヴィチから疎外されており、父の死後すぐにニキータ・イヴァーノヴィチがボヤーリンの地位を継ぐことができなかったのも、あるいはそれと関係があるのかもしれない。1644年にようやくストーリニクに任命された。ボヤーリンとなったのは翌年。
しかし莫大な財産を所有していたと言われ、そのためもあって宮廷では大きな影響力を持った。
1645年、ツァーリ・ミハイール・フョードロヴィチが死に、まだ若いアレクセイ・ミハイロヴィチが即位。ニキータ・イヴァーノヴィチはアレクセイ・ミハイロヴィチ以外では唯一のロマーノフ家の人間として、新ツァーリの下で実権を握ったボリース・モローゾフに反発。チェルカースキイ公、プローゾロフスキイ公、シェレメーテフなど、反モローゾフ派の中核となった。
1648年には «塩一揆» に乗じてボリース・モローゾフを追い落とすことに成功。一時は羽振りが良かったが、その後モローゾフが復帰すると、再び野に下る。
非常な野心家であったと言われ、それがひとつにはボリース・モローゾフと対立する要因だったのだろうが、嗜好ではボリース・モローゾフと共通するところがあった。ニキータ・イヴァーノヴィチも多分にヨーロッパ的なものを好み、«ドイツの» 音楽を聴き、«ドイツ人» とつきあい、«ドイツ風» の衣服を着ることすらあった。モスクワ総主教にも苦い顔をされたが、ニキータ・イヴァーノヴィチは無視した。
ロシア語で «ドイツの» という形容詞は немецкий という。これは語源的には «немой(唖の)» から来ている。つまり「ロシア語が喋れない」という意味である。この当時、немецкий という形容詞はいまだにその意味合いを残しており、広く «外国人の» という意味で使われていた(ただし実際にはヨーロッパ人に限定される)。
1654年、ポーランドとの戦争が勃発すると、スモレンスク奪回戦に従軍している。
子がなかったため、死後その財産はツァーリ・アレクセイ・ミハイロヴィチが相続した。