ニキータ・アレクサンドロヴィチ
Никита Александрович
公 князь императорской крови
生:1900.01.03/01.16−サンクト・ペテルブルグ
没:1974.09.12(享年74)−カンヌ(フランス)
父:アレクサンドル・ミハイロヴィチ大公 1866-1933 (ミハイール・ニコラーエヴィチ大公)
母:クセーニヤ・アレクサンドロヴナ大公女 1875-1960 (皇帝アレクサンドル3世・アレクサンドロヴィチ)
結婚:1922−パリ
& マリーヤ・イラリオーノヴナ 1903-97 (イラリオーン・イラリオーノヴィチ・ヴォロンツォーフ=ダーシュコフ伯)
子:
名 | 生没年 | 結婚 | 結婚相手 | 生没年 | その親・肩書き | 身分 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|
マリーヤ・イラリオーノヴナと | |||||||
1 | ニキータ | 1923-2007 | 1961 | ジャネット・アン | 1933- | マイクル・ションワルド | アメリカ人 |
2 | アレクサンドル | 1929-2002 | 1971 | マリーア | 1931- | ニシェミ公コッラード・ヴァルグァルネラ | イタリア貴族 |
ミハイロヴィチ。アレクサンドル・ミハイロヴィチ大公の第四子(三男)。
皇帝ニコライ2世・アレクサンドロヴィチの甥。
1917年、二月革命はクリミアの父の所領アイ=トドルで迎える。一時は臨時政府により自宅軟禁状態に置かれた。1918年にはボリシェヴィキーに逮捕される危機もあったが、ドイツ軍、白衛軍により救われる。
1918年暮れ、第一次世界大戦が終結。パリで開催される講和会議に出席するため、父が出国した。この当時はまだボリシェヴィキー政権もいずれは崩壊するものと思われており、誰も国外亡命など考えてはおらず、そのままクリミアに残留した。
しかし1919年に入ると急速に情勢は悪化。白衛軍は赤軍に押され、ボリシェヴィキーの勢力は南ロシアに及んできた。このため1919年4月、イギリスの軍艦で、祖母の皇太后マリーヤ・フョードロヴナ、母、兄弟、さらにはニコラーエヴィチ一族とともに亡命した。
革命時には17歳。兄たちと違い、生まれ育ったのはロシアでも、本格的に軍人としてのキャリアを始める前に革命でその地位を失い、19歳の時には亡命を余儀なくされた。
亡命後は、基本的に母とロンドンに住んだが、姉イリーナ・アレクサンドロヴナ公女や父の住むフランスにもしばしば滞在した。
妻マリーヤ・イラリオーノヴナ伯女とは幼少時からの付き合い。
第二次世界大戦が勃発した時にはたまたまパリにいて、フランスがドイツ軍に占領されるとロンドンに戻ることができなくなった。このため一旦はローマに移ったが、その後プラハへ。終戦時には、ソ連軍の侵攻に伴い、危うくソ連軍に捕らえられるところだった。戦後、再びフランスへ。
1948年、アメリカに移住。