ロマーノフ家人名録

ナターリヤ・アレクセーエヴナ

Наталья Алексеевна

大公女 великая княжна

生:1714.07.12/07.23−サンクト・ペテルブルグ
没:1728.11.22/12.02(享年14)−モスクワ

父:ツァレーヴィチ・アレクセイ・ペトローヴィチ 1690-1718 (皇帝ピョートル1世・アレクセーエヴィチ
母:ツァレーヴナ・ソフィヤ・シャルロッタ (ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公ルートヴィヒ・ルードルフ)

結婚:なし

子:なし

ツァレーヴィチ・アレクセイ・ペトローヴィチの第一子(長女)。皇帝ピョートル2世・アレクセーエヴィチの姉。
 史上初のツァーリの孫。ロシアの支配者の孫としても、モスクワ大公イヴァン大帝の孫ドミートリイ・イヴァーノヴィチ(1483-1509)以来200年振り。

ナターリヤ・アレクセーエヴナと弟ピョートル・アレクセーエヴィチの正式な称号は何だったのだろう?
 ナターリヤ・アレクセーエヴナは忘れ去られた存在で言及されることすらないが、ピョートル・アレクセーエヴィチについては、文献によって、大公とツァレーヴィチが同じくらいの頻度で使用されている。
 ツァレーヴィチ/ツァレーヴナというのはツァーリの息子/娘を意味するので、ツァーリの孫には本来使えないはずだ。
 他方で大公は本来キエフ、ヴラディーミル、モスクワ等、一部の支配者が使用した称号である。当時のロシアでは、ツァーリ・皇帝自身の称号であった。しかし当時の法令によると、ピョートル大帝の息子も、ツァレーヴィチと大公の両方の称号を与えられていたようである。つまりツァーリ・皇帝だけでなく、その子にも大公という称号が与えられるようになっていたらしい。事実、ナターリヤ・アレクセーエヴナの墓碑銘(現存しない)には大公女と刻まれていたようだ。
 とすると、ナターリヤ・アレクセーエヴナとピョートル・アレクセーエヴィチの姉弟には大公/大公女の称号が与えられていたと考えられる。問題はツァレーヴィチ/ツァレーヴナの称号も与えられていたかどうかだが、こちらは確認が取れなかった。

 生後1年で母を亡くす。さらに4歳の時に父を亡くす。以後、叔母たち(祖父ピョートル大帝の娘たち)とともに育てられる。
 ナターリヤ・アレクセーエヴナ大公女の養育に当たったのはゴリドバフという(おそらくドイツ系の)学者で、ナターリヤ・アレクセーエヴナ大公女は幾何学、天文学などに優れていたと言われる。
 もっとも、祖父には無視され、かと言ってほかに係累もなく、ナターリヤ・アレクセーエヴナ大公女は弟ピョートル・アレクセーエヴィチ大公同様宮廷で見捨てられていた。

 1727年、弟ピョートル2世が即位。これによりナターリヤ・アレクセーエヴナ大公女は皇姉となり、その環境はがらりと変化した。
 1728年には宮廷はモスクワに戻ったが、ナターリヤ・アレクセーエヴナ大公女にはモスクワは初めての都市で、サンクト・ペテルブルグと別れるのを悲しんだと言われる。

 ピョートル2世は皇帝になると勉学も放擲し、政務も顧みず遊びほうけていたと言われ、ナターリヤ・アレクセーエヴナ大公女がいくら諌めても聞き入れなかった。むしろ外国の使節に対応したりといった宮廷行事ではナターリヤ・アレクセーエヴナ大公女がピョートル2世の代わりを務めたこともあったという。歴史からは忘れ去られた存在であり、どのような人物だったのかはよくわからないが、まだローティーンでありながら、ずいぶんしっかりしたまじめな子供だったのだろう。

 モスクワのヴォズネセンスキイ修道院に葬られた。ソ連時代に修道院が取り壊され、現在はアルハンゲリスキイ大聖堂に眠っている。

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