ナターリヤ・アレクセーエヴナ
Наталья Алексеевна
ツァレーヴナ царевна
生:1673.08.22/09.01−モスクワ
没:1716.06.18/06.29(享年42)−サンクト・ペテルブルグ
父:ツァーリ・アレクセイ・ミハイロヴィチ 1629-76
母:ツァリーツァ・ナターリヤ・キリーロヴナ 1651-94 (キリール・ポリエフクトヴィチ・ナルィシュキン)
結婚:なし
子:なし
ツァーリ・アレクセイ・ミハイロヴィチの第十五子(九女)。ナターリヤ・キリーロヴナにとっては第二子(長女)。
ツァーリ・フョードル3世・アレクセーエヴィチ、イヴァン5世・アレクセーエヴィチの異母妹、皇帝ピョートル1世・アレクセーエヴィチの同母妹。
3歳で父を亡くし、以後母や兄ピョートル・アレクセーエヴィチとともに、主にモスクワ郊外のプレオブラジェンスコエ村で幼少期を過ごす。
ピョートル1世と仲が良く、嗜好も似通っていたらしい。しょっちゅう兄とともにドイツ人居留地に通い、兄の «遊び» にもつきあっていた。のち、ピョートル1世がロシア最初の艦隊をヴォルガ河に浮かべた時には進水式に参列しているし、ピョートル1世が西欧から帰国した時には最初にロシア風の衣服から «ドイツ風» の衣服に替えている。
同時に異母姉たちとも比較的仲が良く、特にソフィヤ・アレクセーエヴナとのからみでほかの異母姉たちがピョートル1世から睨まれた際には、あいだを取り持ったりもしている。
ピョートル1世が権力を握った後も、プレオブラジェンスコエ村に住み続けたらしい。
ソフィヤ・アレクセーエヴナが失権したのは、ナターリヤ・アレクセーエヴナ16歳の時。通常の王家であれば、そろそろ結婚していてもおかしくない年齢だが、ロマーノフ家ではこれまで結婚したツァレーヴナはひとりもいない。ピョートル1世によって女性がテーレムから解放されるのはさらに10年ほど後のことで、その頃にはナターリヤ・アレクセーエヴナは婚期を逃していたということか。
おそらくそれよりも、ピョートル1世がお気に入りの妹を手放したがらなかった、ということが大きいのだろう。もっともアレクサンドル1世のような近親相姦疑惑は聞いたことがない。
1698年、ピョートル1世が最初の妃エヴドキーヤ・ロプヒナーを修道院に押し込めると、残されたツァレーヴィチ・アレクセイ・ペトローヴィチの養育を委ねられた。とはいえ、ナターリヤ・アレクセーエヴナが自ら養育に関与したわけではなさそうだ。
エヴドキーヤ・ロプヒナー追放後はピョートル1世には事実上妃がいないことになった。このため、クレムリンでは義姉プラスコーヴィヤ・サルトィコーヴァ(イヴァン5世の未亡人)が女主人役を務めたが、ナターリヤ・アレクセーエヴナもプレオブラジェンスコエ村に独自の «宮廷» を構えた。ここにはピョートル1世の寵臣アレクサンドル・メーンシコフ公の妹たちなど、多くの貴族の娘たちがあるいは住まい、あるいはしばしば訪問していた。
のち、ピョートル1世は愛人マルファ・スカヴロンスカヤをナターリヤ・アレクセーエヴナに預け、通ってきた。
1706年頃、プレオブラジェンスコエ村で劇場(ロシア初)を開設。自身戯曲を書いている。戯曲自体がどんなものかは知らないが、このためナターリヤ・アレクセーエヴナはロシアの演劇史上欠かせない人物となっている。
1708年、サンクト・ペテルブルグにお引越し。ペテルブルグ近郊に所領を与えられ、のちにここはガッチナとなる。ちなみにここにも劇場を建てている。
1715年、ツァレーヴィチ・アレクセイ・ペトローヴィチの長男ピョートル・アレクセーエヴィチ(のちの2世)の教母となる。
死因は胃カタル。
サンクト・ペテルブルグのアレクサンドル・ネフスキイ大修道院に埋葬されている。
アレクサンドル・ネフスキイ大修道院 Александро-Невская лавра は、1240年にスウェーデンに勝利したアレクサンドル・ネフスキイにあやかろうと思ってか、ピョートル1世によって建てられた。なお、正確には大修道院 лавра となったのは1797年。それまでは普通の修道院 монастырь だったが、面倒なのでここでは大修道院に訳語を統一する。
ここにはラーザレフスコエ、ティフヴィンスコエ、ニコーリスコエの3つの墓地があるが、ニコーリスコエは19世紀末に開かれたもので、被埋葬者に著名人はほとんどいない。ティフヴィンスコエに埋葬されているのは芸術家が多い。ラーザレフスコエは最初に開かれた墓地で、ナターリヤ・アレクセーエヴナ以来皇族も多くここに埋葬されている。ちなみに、皇族で最後にアレクサンドル・ネフスキイ大修道院に埋葬されたのは、もうひとりのナターリヤ・アレクセーエヴナ(1776)。