ロマーノフ家人名録

ミハイール・パーヴロヴィチ

Михаил Павлович

大公 великий князь

生:1798.01.28/02.08−サンクト・ペテルブルグ
没:1849.08.28/09.10(享年51)−ワルシャワ(現ポーランド)

父:皇帝パーヴェル・ペトローヴィチ 1754-1801
母:皇妃マリーヤ・フョードロヴナ 1759-1828 (ヴュルテンベルク公フリードリヒ2世・オイゲン)

結婚:1824−サンクト・ペテルブルグ
  & エレーナ・パーヴロヴナ 1807-73 (ヴュルテンベルク王子パウル)

子:

生没年結婚結婚相手生没年その親・肩書き身分
エレーナ・パーヴロヴナと
1マリーヤ1825-46
2エリザヴェータ1826-451844アードルフ1817-1905ナッサウ公(1839-66)・ルクセンブルク大公(1890-1905)ドイツ諸侯
3エカテリーナ1827-941851ゲオルク1824-76メクレンブルク=シュトレーリツ公家の分家ドイツ諸侯
41830
5アレクサンドラ1831-32
6アンナ1834-36
?と(姓はイユーネフ)
ナデージュダ1843-1908アレクサンドル1832-1909アレクサンドル・ポロフツォーフロシア貴族

皇帝パーヴェル・ペトローヴィチの第十子にして末子(四男)。
 兄弟の末子で、ふたりの皇帝アレクサンドル1世・パーヴロヴィチニコライ1世・パーヴロヴィチの弟。

 ロシア皇帝となるべき長兄アレクサンドル・パーヴロヴィチ大公、«コンスタンティノープル皇帝» となるべき次兄コンスタンティーン・パーヴロヴィチ大公が祖母エカテリーナ2世の手元で将来の支配者として育てられたのに対して、すぐ上の兄ニコライ・パーヴロヴィチ大公とミハイール・パーヴロヴィチ大公にはこれといった将来の使命もなく、かれら年少の男子にはエカテリーナ2世も関心を示さなかった(そもそもミハイール・パーヴロヴィチ大公が生まれた時点でエカテリーナは死んでいた)。このため、ニコライ・パーヴロヴィチ大公とミハイール・パーヴロヴィチ大公は早くから軍人として育てられる。
 ただし、しばしば「ミハイール・パーヴロヴィチ大公はロマーノフ家の伝統に従い軍人として育てられた」との記述があるが、これは間違い。皇帝(ツァーリ)に跡継ぎ以外の男子(次男坊以下)が誕生したのは、ツァーリ・アレクセイの子供たち(フョードルイヴァンピョートル)以来絶えてなかったことだし、この3人も別に軍人として育てられてはいない。つまり「ロマーノフ家の男子が軍人として育てられる伝統」は、まさにニコライ・パーヴロヴィチ大公とミハイール・パーヴロヴィチ大公から始まったものである。
 もっとも、祖父ピョートル3世も父パーヴェル・ペトローヴィチもプロイセン狂いだったので、ロマーノフ家の男子が «軍人的環境» で育てられるのは、確かにそれ以来伝統になっていた、と言えるかもしれない。
 実際にはミハイール・パーヴロヴィチ大公が3歳の時に父がクーデタで殺され、長兄アレクサンドル・パーヴロヴィチ大公が即位しているので、ミハイール・パーヴロヴィチ大公の養育を監督したのは母とリーヴェン夫人。

 ミハイール・パーヴロヴィチ大公は1814年に初陣。1819年には21歳で砲兵を任されたほか、1825年にニコライ・パーヴロヴィチ大公が皇帝になると工兵査察総監。1831年には各種陸軍幼年学校の監督を任された。
 露土戦争(1826-28)、ポーランド十一月蜂起(1830-31)の鎮圧に従軍した。

 末子でもあり、ミハイール・パーヴロヴィチ大公は兄姉たちから甘やかされた。中でもすぐ上の兄ニコライ・パーヴロヴィチ大公とは終生にわたって親密だった。また、なぜか次兄コンスタンティーン・パーヴロヴィチ大公とも仲が良かった。
 人柄は善良で陽気であったが、しかしそれ以上に秩序と規律を重んじた(偏愛した、と言ってもいい)。特に歳の離れた長兄アレクサンドル1世と次兄コンスタンティーン・パーヴロヴィチ大公には略称で呼びかけることすらしなかったという。
 このような形式主義と厳格さは、祖父ピョートル3世以来ロマーノフ家の男子に代々遺伝している。その表れが、ひとつには、軍隊(と言うよりもパレード)に対する偏愛であろう。兄弟は基本的に父に似て、軍隊をことのほか愛した軍隊マニアで、部下に厳格な規律を押し付け、壮麗なパレードを見物し、軍服や規律の些細な点に執着し、そのくせ作戦指揮能力にも管理能力にも乏しかった。ある意味、ミハイール・パーヴロヴィチ大公はその典型だったと言える。
 まさにこの点が、かれが他人から(部下からも)嫌われた最大の原因だっただろう。

 当然、夫婦関係もうまく行くはずがない。ミハイール・パーヴロヴィチ大公とエレーナ・パーヴロヴナ大公妃の夫婦生活は冷え切ったものだったという。
 ミハイール・パーヴロヴィチ大公の性向に気付いていたコンスタンティーン・パーヴロヴィチ大公が、ふたりの結婚前に警告を発していたらしいが、誰も聞き入れなかった。
 しかもミハイール・パーヴロヴィチ大公の性格の問題に加え、ふたりは趣味も素養もまったく異なっていた。エレーナ・パーヴロヴナ大公妃は非常に高い知性と教養の持ち主であったが、ミハイール・パーヴロヴィチ大公の方は軍務にしか関心を示さなかった(そもそも大した知的教育を受けなかった)。
 そもそもこの結婚自体がまわりの決めたものであり、ミハイール・パーヴロヴィチ大公としては避けられぬものとして甘受したにすぎなかった(結婚式の最中にもミハイール・パーヴロヴィチ大公は花嫁に関心を払わず、兄たちを驚かせている)。
 息子を生まないことに不満を覚えたが、かれが妻に対して抱いた感情はその程度だったろう。

 ミハイール・パーヴロヴィチ大公はサンクト・ペテルブルグに巨大なミハイロフスキイ宮殿(現ロシア美術館)を建ててもらったが、これは、ふたりの兄が皇帝、もうひとりの兄も事実上ポーランド副王となったのに対して、ミハイール・パーヴロヴィチ大公には何もなかったことの埋め合わせだったとも言われる。
 実際、3人の兄はいずれもロシア史上に重要な役割を演じているが、ミハイール・パーヴロヴィチ大公だけは政治的にも軍事的にも文化的にも何の役割も果たさず、個人としてもこれといった逸話を残していない。

 もともと決して頑健であったわけではないが、1845年、46年と立て続けにふたりの娘を亡くしたのが、ミハイール・パーヴロヴィチ大公の健康に大きな影響を与えたと言われる。
 1849年、体調が思わしくない中ワルシャワに赴き、軍事演習中に倒れた。ベルヴェデーレ宮殿に妻と唯一生き残った娘が駆け付けた時には、これに気付いて喜んだと言われる。しかし2週間後、死去。
 ペトロパーヴロフスキイ大聖堂に埋葬されている。

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