ロマーノフ家人名録

ミハイール・アレクサンドロヴィチ

Михаил Александрович

大公 великий князь
ツェサレーヴィチ наследник цесаревич (1899-1904)

生:1878.11.22/12.05−サンクト・ペテルブルグ
没:1918.06.12-13(享年39)−ペルミ

父:皇帝アレクサンドル3世・アレクサンドロヴィチ 1845-94
母:皇妃マリーヤ・フョードロヴナ 1847-1928 (デンマーク王クリスティアン9世)

結婚:1912−ヴィーン
  & ナターリヤ・セルゲーエヴナ 1880-1952 (セルゲイ・シェレメーティエフスキイ)
                               セルゲイ・イヴァーノヴィチ・マモントフ夫人
                               ヴラディーミル・ヴラディーミロヴィチ・ヴリフェルト夫人

子:

生没年結婚結婚相手生没年その親・肩書き身分
ナターリヤと (姓はブラーソフ)
1ゲオルギイ1910-31

皇帝アレクサンドル3世・アレクサンドロヴィチの第五子(四男)。
 皇帝ニコライ2世・アレクサンドロヴィチの弟。従兄弟はデンマーク王クリスティアン10世(1870-1947)、ノルウェー王ホーコン7世(1872-1957)、ギリシャ王コンスタンティノス1世(1868-1923)、イギリス王ジョージ5世(1865-1936)。

 3歳で引っ越したガッチナで育った。ここで父や妹オリガ・アレクサンドロヴナ大公女と仲良く屋外での遊びを楽しんだ(上の兄や姉たちとは年齢が少々離れていたため、若干疎遠であった)。

 少年時代にはセルゲイ・ヴィッテ(のちの首相)が2年間にわたり政治経済を教え、ミハイール・アレクサンドロヴィチ大公を高く評価している。

 1894年に父が死んだ後、母はガッチナから、長年愛したサンクト・ペテルブルグ市内のアニーチコフ宮殿に、ミハイール・アレクサンドロヴィチ大公とオリガ・アレクサンドロヴナ大公女を連れて戻っている(長兄ニコライ2世と姉クセーニヤ・アレクサンドロヴナ大公女は結婚して別居。次兄ゲオルギイ・アレクサンドロヴィチ大公はカフカーズで療養中)。
 またこれに伴い、ミハイール・アレクサンドロヴィチ大公の軍人としての本格的な訓練が始まった(ちなみに砲兵)。

 1899年、次兄ゲオルギイ・アレクサンドロヴィチ大公の死によりツェサレーヴィチ。
 ちなみに、ミハイール・アレクサンドロヴィチ大公を皇位継承者と認めた勅令では、ミハイール・アレクサンドロヴィチ大公の称号に наследник цесаревич が使われていなかった。そのため宮廷で様々な憶測を呼び、結局1週間後には新たな勅令を出して、ミハイール・アレクサンドロヴィチ大公を наследник とした。しかしここでも цесаревич が欠けていた。ミハイール・アレクサンドロヴィチ大公を後継者として認めると、もう男子が生めなくなるのではないかという、皇妃アレクサンドラ・フョードロヴナの怖れが反映された文言であると噂になった。この小細工の真意がどこにあったかはよくわからないが、結局皇帝と皇妃の権威を落としただけに終わった。
 その後1904年、皇太子アレクセイ・ニコラーエヴィチ大公の誕生により、皇位継承順位第3位に後退した。皇太子アレクセイ・ニコラーエヴィチ大公が18歳になる前にニコライ2世が死んだ場合には、ミハイール・アレクサンドロヴィチ大公が摂政となることが定められた。
 ミハイール・アレクサンドロヴィチ大公自身は政治に無関心で、皇位継承も重荷に感じていたらしく、アレクセイ・ニコラーエヴィチ大公が誕生した時には大喜びだった。

 1902年、従姉妹のベアトリスとの間にロマンスが芽生えた。両者ともに結婚を望んだと言われるが、従兄弟同士の結婚が正教会で禁じられていたため、実現しなかった。ベアトリスはその後もミハイール・アレクサンドロヴィチ大公に恨みのこもった手紙を書き送っている。

ベアトリクス・フォン・ザクセン=コーブルク(1884-1966)は、イギリス王子・エディンバラ公・ザクセン=コーブルク&ゴータ公アルフレッド(ドイツ語ではアルフレート)とマリーヤ・アレクサンドロヴナ大公女との間の子。のち、スペイン王族のガリエラ公アルフォンソ・デ・オルレアン・イ・ブルボンと結婚。

 もっとも、従兄弟同士の結婚がまったくなかったかと言えばそんなことはない。事実、エカテリーナ・パーヴロヴナ大公女のふたりの夫はいずれも従兄弟である。要は、皇帝である兄が結婚を許可しなかったため結婚できなかったということだ。
 しかし、数年後、ベアトリスと同じようにその姉がニコライ2世から従兄弟との結婚を認めてもらえないというのも、巡り合わせのおもしろさである。
 それにしても、もしこの時ニコライ2世がふたりの結婚を認めていれば、その後のスキャンダルもなかったわけだし、皇位継承権を巡るごたごたも生じなかったはずだ。

 ニコライ2世の後悔の時はすぐに訪れた。1905年頃から、ミハイール・アレクサンドロヴィチ大公は、オリガ・アレクサンドロヴナ大公女の侍女アレクサンドラ・ヴラディーミロヴナ・コシコフスカヤ(1875-1923)と関係を持つようになった。単なる愛人関係というならともかく(妻は貴族でも愛人は平民というのが当たり前だった)、ミハイール・アレクサンドロヴィチ大公はニコライ2世に結婚の許可を求めている。しかし従姉妹との結婚も許さないニコライ2世が、平民との結婚を許すはずもない。
 周囲からの圧力に屈する形で、アレクサンドラ・コシコフスカヤとの関係も1907年頃には終わった。

 1908年頃、ナターリヤ・シェレメーティエフスカヤを愛人とする。これまた平民出で、しかも今度は離婚歴のある人妻だった。前のふたり以上にニコライ2世が結婚を許すはずもない女性であり、ミハイール・アレクサンドロヴィチ大公はしばらく彼女と愛人関係を続けていた。
 ひとり息子ゲオルギイはその間に生まれており、私生児。

 1912年、ミハイール・アレクサンドロヴィチ大公はナターリヤ・シェレメーティエフスカヤとヴィーンのセルビア正教会にて秘密結婚。国外での結婚故にロシア皇帝にも、また正教会とはいえセルビア正教会であるが故にロシア正教会にも、この結婚を無効とすることができなかった。ニコライ2世はふたりを国外追放処分とする。ただしミハイール・アレクサンドロヴィチ大公の皇位継承権については、ニコライ2世が放棄を要求したが、ミハイール・アレクサンドロヴィチ大公は応じなかった。仕方がないのでニコライ2世はミハイール・アレクサンドロヴィチ大公の摂政権を否定。
 ミハイール・アレクサンドロヴィチ大公は «ブラーソフ公 князь Брасов» を名乗って(トヴェーリ県にある所領)、フランスに居住。その後イギリスに移り住んだ。所領の管理は後見人が任命されてミハイール・アレクサンドロヴィチ大公の自由にはならなかったものの、没収はされなかったので、生活費には困らなかった。

ブラーソフについては、諸説ある。1910年にニコライ2世ゲオルギイ・ミハイロヴィチに与えたとするもの(私生児に姓を与えるのは普通)。1915年に同じくニコライ2世ナターリヤ・シェレメーティエフスカヤに与えたとするもの。それに、亡命中にミハイール・アレクサンドロヴィチ大公が自称したとするもの、である。確認が取れなかった。

 第一次世界大戦の勃発に伴い帰国を許され、ガッチナに居住(ただしナターリヤ・シェレメーティエフスカヤが宮殿に住むことは認められなかったので、別荘を買った)。
 この時のニコライ2世の対応についても諸説ある。この時ブラーソフの姓が母子に与えられた(ついでに貴族に列せられた)、この時初めてゲオルギイをミハイール・アレクサンドロヴィチ大公の子として認めた、ふたりの結婚を認めた、等。特に最後の点については、結局結婚は認めなかったとする説もある。
 いずれにせよミハイール・アレクサンドロヴィチ大公も大公としての権利を復され、将軍として北カフカーズのイスラーム教徒から成る師団を指揮した。しかし、すぐに胃の病気でペトログラードに帰還を余儀なくされている(ミハイール・アレクサンドロヴィチ大公は数年前から胃潰瘍に悩んでいた)。

それにしても、ここまで、もうひとりのミハイール大公、ミハイール・ミハイロヴィチ大公の経緯と比べてみると面白い。ふたりとも数度の結婚の試みを家族に反対され(最初は王朝結婚、次に貴賤結婚)、最終手段として皇帝の承認を得ることなく外国で貴賤結婚をしている。しかし第一次世界大戦の勃発に伴い、ミハイール・ミハイロヴィチ大公の帰国が許されなかったのに対して、ミハイール・アレクサンドロヴィチ大公の帰国が許されているのは対照的だ。ちなみにもうひとり、皇帝の許可を得ずに外国で貴賤結婚をしたパーヴェル・アレクサンドロヴィチ大公も、大戦勃発に伴い帰国を許されている。

 その後、何度か健康上の理由から前線を離れることを余儀なくされながらも、ミハイール・アレクサンドロヴィチ大公は軍団司令官、騎兵総監等として軍務をこなした。

 ミハイール・アレクサンドロヴィチ大公は、善良で物静かで、気高い心の持ち主だったと言われる。政治的な発言はしなかったが、一般的にリベラルだと見られていた。

 ミハイール・アレクサンドロヴィチ大公は、«大公たちのフロンド» やマリーヤ・パーヴロヴナ大公妃の陰謀には加担しなかったが、かねてより皇妃アレクサンドラ・フョードロヴナから政治的権限を奪うようニコライ2世に進言していた。
 1917年の最後の日々は、ペトログラードで兄の皇位を、帝政を護るために努力を傾注した。
 2月27日/3月12日、ドゥーマ議長ミハイール・ロヂャンコ(大地主で君主主義者)の助言を容れて、ドゥーマの多数党の代表から成る政府をつくるようニコライ2世に提案(ニコライ2世は拒否)。
 3月1日/14日、ミハイール・ロヂャンコとパーヴェル・アレクサンドロヴィチ大公が起草した立憲君主制の樹立を宣言する文書に署名(これはペトログラード・ソヴィエトにより拒絶される)。

 3月2日/15日、ニコライ2世が退位。当初皇太子アレクセイ・ニコラーエヴィチ大公に譲位したものの、のちに決断を翻し、ミハイール・アレクサンドロヴィチ大公に皇位を譲った。
 このニコライ2世の決断に関しては問題がある。たとえまだ成人に達していなかったとはいえ、皇太子アレクセイ・ニコラーエヴィチ大公の皇位継承をもニコライが否定することができるのか、という問題である。
 法的に言えばこの時点でミハイール・アレクサンドロヴィチ大公はロシア皇帝となった。

 3月3日/16日、ミハイール・アレクサンドロヴィチは、アレクサンドル・ケーレンスキイ等の用意した条件付き受諾宣言に署名。

Одушевленный единою со всем народом мыслью, что выше всего благо Родины нашей, принял я твердое решение в том лишь случае воспринять верховную власть, если такова будет воля великого народа нашего, которому надлежит всенародным голосованием, чрез представителей своих в Учредительном Собрании, установить образ правления и новые основные законы Государства Российского.
 Посему, призывая благословение Божие, прошу всех граждан державы Российской подчиниться Временному правительству, по почину Государственной Думы возникшему и облеченному всею полнотой власти, впредь до того, как созванное и в возможно кратчайший срок, на основе всеобщего, прямого, равного и тайного голосования, Учредительное Собрание своим решением об образе правления выразит волю народа.
(我らが母国の幸いこそが至高であるとの全人民と同じ考えに勇気づけられ、わたしは、最高権力を受けるのはただ、それが偉大なる我らが人民の意思である場合のみである、との確固たる決断を下した。人民は、憲法制定会議の代議員を通じて、全人民的決議によりロシア国家の体制と新基本法(憲法)を制定せねばならない。
 故に、神の祝福を祈りつつ、向後、普通、直接、平等、秘密の投票に基づき可能な限り短期間で招集された憲法制定会議が統治の形態につき人民の意志を表するまでは、国家ドゥーマのイニシャティヴにより生まれ、全権を付与された臨時政府に服従するようロシアの全市民にお願いする)

 つまり、ミハイール・アレクサンドロヴィチは皇位継承を拒否したわけでもなく、あるいは一旦受け入れた皇位を放棄した(退位した)わけでもない。即位を保留したわけだ。
 しかし現実は、ミハイール・アレクサンドロヴィチの思惑がどのようなものであったにせよ、それを押し流して進んでいった。ミハイール・アレクサンドロヴィチが皇帝となる可能性は、3月3日をピークとして急速にゼロに近づいていく。
 結果として、ミハイール・アレクサンドロヴィチは3月2日/15日から3日/16日までのわずか1日だけ、しかも法的に(つまりは名目上の)皇帝だったにすぎない。«1日だけの皇帝» と呼ばれるゆえんである。
 ロマーノフ家初代のツァーリがミハイール・フョードロヴィチで、最後の皇帝がミハイール・アレクサンドロヴィチというのも奇妙な偶然である。

 臨時政府下ではガッチナに自宅軟禁。ミハイール・アレクサンドロヴィチはイギリスへの亡命を求めてイギリス大使館に接触を取るが、イギリス政府に断られた。フィンランドに逃亡しようとしたまさにその瞬間に十月革命が勃発し、ミハイール・アレクサンドロヴィチは再び自宅軟禁。
 1918年3月、ミハイール・アレクサンドロヴィチはボリシェヴィキーによりペルミに追放される。これには秘書のイギリス人ニコラス・ジョンスンが同行し、ふたりはホテルに居住した。ナターリヤ・ブラーソヴァも一緒だったが、5月にはモスクワに赴いてミハイール・アレクサンドロヴィチの釈放を勝ち取るための運動を始めた(ちなみに首都は2月にモスクワに移っていた)。

 しかしミハイール・アレクサンドロヴィチの運命は、戦争捕虜となっていたチェコ人がチェリャービンスクで叛乱を起こして白衛軍と合流した時に決まった。内陸部で安全だと思われていたペルミは、いまや内戦の最前線となろうとしていた。
 ウラル・ソヴィエトの、そしてレーニンの事前の承認があったか否かは不明だが、いずれにせよミハイール・アレクサンドロヴィチはジョンスンとともに、兄一家よりも1ヶ月前に、ペルミ近郊でボリシェヴィキーに殺された。
 ミハイール・アレクサンドロヴィチの処刑に関しては、ボリシェヴィキーは一切公表しなかった。このため、のちのちまで「ミハイール・アレクサンドロヴィチは実は生きている」との噂が絶えなかった。

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