マリーヤ・アンドレーエヴナ・ルミャーンツェヴァ
Мария Андреевна Матвеева, Румянцева
伯妃 графиня (1744-)
生:1699.04.04/04.14
没:1788.05.04/05.15(享年89)
父:アンドレイ・アルタモーノヴィチ・マトヴェーエフ 1666-1728
母:アンナ・ステパーノヴナ・アニーチコヴァ 1666-99
愛人:皇帝ピョートル1世・アレクセーエヴィチ 1672-1725
結婚:1720
& アレクサンドル・イヴァーノヴィチ・ルミャーンツェフ 1680-1749
子:
名 | 生没年 | 結婚 | 結婚相手 | 生没年 | その親・肩書き | 身分 | |
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と | |||||||
1 | エカテリーナ | 1721-88 | ニコライ | -1769 | ミハイール・レオーンティエフ | ||
2 | ダーリヤ | 1723-1817 | フランツ・ヨーゼフ | 1719-58 | ヴァルトシュタイン | ||
ユーリイ公 | 1736-1811 | ニキータ・ユーリエヴィチ・トルベツコーイ公 | ゲディミノヴィチ | ||||
3 | ピョートル | 1725-96 | エカテリーナ公女 | ミハイール・ゴリーツィン公 | ゲディミノヴィチ | ||
4 | プラスコーヴィヤ | 1731-86 | ヤーコフ伯 | 1729-91 | アレクサンドル・ロマーノヴィチ・ブリュース伯 | ロシア貴族 |
ロシアの新興貴族。正教徒。
マトヴェーエフ家の祖を辿ると、17世紀前半の下級聖職者に行きつく。その子アルタモーンが官僚として出世し、ツァーリ・アレクセイ・ミハイロヴィチの重臣にまで登り詰めた。しかしマリーヤ・アンドレーエヴナの兄フョードル・アンドレーエヴィチ(1696-1734)の死で、マトヴェーエフ家は断絶した。
父はピョートル大帝に早くから仕え、オランダ駐在大使(1699-1712)、ヴィーン駐在大使(1712-15)を歴任。マリーヤ・マトヴェーエヴァもハーグとヴィーンで教育を受けた。
1715年にサンクト・ペテルブルクに帰還。その西欧的教養と快活さですぐにピョートル大帝のお気に入りとなる。«愛人» のひとりとされるが、おそらく両者の間に男女間の愛情めいたものはあまりなかっただろう。
1720年、ピョートル大帝の命令でアレクサンドル・ルミャーンツェフと結婚。
1725年に生まれた男子ピョートルは、教父母がピョートル大帝と皇妃エカテリーナ・アレクセーエヴナだが、父親はほかならぬピョートル大帝だとする説もある(あまり信憑性はない)。
女帝アンナ・イヴァーノヴナが即位すると、夫は失脚。マリーヤ・ルミャーンツェヴァも子供たちを連れてカザニ県の所領に逼塞した。しかし1735年には呼び戻され、夫はアーストラハン県知事、カザニ県知事、マロロシア総督に相次いで任命され、1740年にはイスタンブール駐在大使に。
マリーヤ・ルミャーンツェヴァはツェサレーヴナ・エリザヴェータ・ペトローヴナと仲が良く、アンナ時代にも連絡を取り合っていた。エリザヴェータ・ペトローヴナが即位すると、その女官として宮廷に復帰した。
1744年、女帝エリザヴェータ・ペトローヴナから、ロシアに到着したばかりのアンハルト=ツェルプスト侯女ゾフィーを監督する役目を仰せつかる。ゾフィー(のちの女帝エカテリーナ2世)やそのお付きの女官たちからは怖れられたと言われる。
にもかかわらず、エカテリーナ2世は即位するとマリーヤ・ルミャーンツェヴァを重用した。宮廷でも最古参に属する女官であり、ピョートル大帝を個人的に知る最後の人物のひとりでもあり、しかも息子は軍の重鎮として活躍しているし(1770年には元帥となる)、ということで、無碍にもできなかったのだろう。
もっとも、人柄は善良で、会話は機知に富んでいた。高い教育を受けたせいもあろうが、しかしニコライ・ミハイロヴィチ大公に言わせれば「оставалась в душе простой русской женщиной(魂は単純なロシア女性のままだった)」ということらしい。
アレクサンドル・ネフスキイ大修道院に埋葬されている。