マリーヤ・イリイーニチナ・ミロスラーフスカヤ
Мария Ильинична Милославская
ツァリーツァ царица (1648-)
生:1626.04.01/04.11−モスクワ
没:1669.03.03/03.13(享年42)−モスクワ
父:イリヤー・ダニーロヴィチ・ミロスラーフスキイ 1595-1668
母:?
結婚:1648−モスクワ
& ツァーリ・アレクセイ・ミハイロヴィチ 1629-76
子:
名 | 生没年 | 結婚 | 結婚相手 | 生没年 | その親・肩書き | 身分 | |
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アレクセイ・ミハイロヴィチと | |||||||
1 | ドミートリイ | 1648-49 | − | ||||
2 | エヴドキーヤ | 1650-1712 | − | ||||
3 | マルファ | 1652-1707 | − | ||||
4 | アレクセイ | 1654-70 | − | ||||
5 | アンナ | 1655-59 | − | ||||
6 | ソフィヤ | 1657-1704 | − | ||||
7 | エカテリーナ | 1658-1718 | − | ||||
8 | マリーヤ | 1660-1723 | − | ||||
9 | フョードル(ツァーリ3世) | 1661-82 | 1680 | アガーフィヤ | -1681 | セミョーン・フョードロヴィチ・グルシェツキイ | ポーランド出身貴族 |
1682 | マルファ | 1664-1715 | マトヴェイ・ヴァシーリエヴィチ・アプラークシン | ムーロム貴族 | |||
10 | フェオドーシヤ | 1662-1713 | − | ||||
11 | シメオン | 1665-69 | − | ||||
12 | イヴァン(ツァーリ5世) | 1666-96 | 1684 | プラスコーヴィヤ | 1664-1723 | フョードル・ペトローヴィチ・サルトィコーフ | モスクワのボヤーリン |
13 | エヴドキーヤ | 1669 | − |
モスクワの宮廷貴族。正教徒。
ツァーリ・アレクセイ・ミハイロヴィチの最初の妃。
マリーヤ・ミロスラーフスカヤは、アレクセイ・ミハイロヴィチの養育係で、実権を握っていたボリース・モローゾフによりアレクセイ・ミハイロヴィチの妃に選ばれる。結婚に際して、父にはボヤーリンの地位が与えられた。また、同時に姉アンナ・ミロスラーフスカヤがボリース・モローゾフと結婚している。
半ば強制された結婚ではあったが、アレクセイ・ミハイロヴィチはマリーヤ・ミロスラーフスカヤを愛していたようだ。彼女が死んだ時には、ひどく悲しんだと伝えられている。
マリーヤ・ミロスラーフスカヤは敬虔で信仰心に篤かったと言われる。
政治的な側面からすると、マリーヤ・ミロスラーフスカヤは伝統的価値観を重視し、ボリース・モローゾフに代表される «ヨーロッパ(ポーランド)かぶれ» には反発したと言われる。もっとも、女性をテーレムの奥に置いて政治から隔離したのがロシアの伝統なので、マリーヤ・ミロスラーフスカヤも政治向きの事柄には口をはさまなかった。現実には彼女はほとんど政治的な影響力を持たなかっただろう。
クレムリン内のヴォズネセンスキイ修道院に埋葬された。
ちなみに、マリーヤ・ミロスラーフスカヤの生んだ子供たちのうち、男子はいずれも病弱だった。夫アレクセイ・ミハイロヴィチは強壮、頑健であったと言われるので、あるいはマリーヤ・ミロスラーフスカヤからの遺伝かもしれない。もっとも、女子はほとんどが健康体だったが。