マリーヤ・ゲオルギエヴナ(マリア)
Μαρία, Мария Георгиевна
ギリシャ&デンマーク王女 Πριγκίττισσα της Ελλάδας και της Δανίας
大公妃 великая княгиня (1900-22)
生:1876.02.19/03.03−アテネ(ギリシャ)
没:1940.12.14(享年64)−アテネ(ギリシャ)
父:ゲオルギオス1世 1845-1913 ギリシャ王(1863-1913)
母:オリガ・コンスタンティーノヴナ大公女 1851-1926 (コンスタンティーン・ニコラーエヴィチ大公)
結婚①:1900−コルフ
& ゲオルギイ・ミハイロヴィチ大公 1863-1919 (ミハイール・ニコラーエヴィチ大公)
結婚②:1922−ヴィスバーデン
& ペリクレス・イオアンニデス提督 1881-1965
子:
名 | 生没年 | 結婚 | 結婚相手 | 生没年 | その親・肩書き | 身分 | |
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ゲオルギー・ミハイロヴィチと | |||||||
1 | ニーナ | 1901-74 | 1922 | パーヴェル公 | 1899-1971 | アレクサンドル・チャフチャヴァーゼ公 | グルジア貴族 |
2 | クセーニヤ | 1903-65 | 1921 | ウィリアム・リーズ | 1902- | アメリカ人 | |
1946 | ハーマン・ジャド | 1911- | アメリカ人 |
ギリシャ王ゲオルギオス1世と王妃オリガ・コンスタンティーノヴナ大公女の第五子(次女)。正教徒。
長兄はギリシャ王コンスタンティノス1世(1868-1923)、姉はアレクサンドラ・ゲオルギエヴナ大公妃、兄嫁はエレーナ・ヴラディーミロヴナ大公女、従兄弟はデンマーク王クリスティアン10世(1870-1947)、ノルウェー王ホーコン7世(1872-1957)、又従兄弟は皇帝ニコライ2世・アレクサンドロヴィチ。
とあるギリシャ人の平民に恋していたと言うが、結婚できるはずもなかった。ゲオルギイ・ミハイロヴィチ大公の求愛に応えたのも、あるいはその傷心ゆえだったのかもしれない。
いずれにせよ、マリーヤ・ゲオルギエヴナ大公妃は結婚前から愛のないことをゲオルギイ・ミハイロヴィチ大公に言明していた。あるいはゲオルギイ・ミハイロヴィチ大公としては、結婚して年月を経ればマリーヤ・ゲオルギエヴナ大公妃の気持ちも変わるだろうと期待していたのかもしれない。しかしマリーヤ・ゲオルギエヴナ大公妃は最後まで夫を愛することができなかったようだ。そもそもマリーヤ・ゲオルギエヴナ大公妃はロシアそのものが気に入らなかったらしい。
結婚後しばらくミハイロフスキイ宮殿に住んだ後、1906年にはクリミアに移住。サンクト・ペテルブルグの社交界を離れ、家族だけの生活を送った。あるいはそれがたまらなかったのかもしれない。マリーヤ・ゲオルギエヴナ大公妃は子供の健康を口実にして外国に赴くことが多くなった。第一次世界大戦の勃発を迎えたのもロンドンにおいて。帰国できず(あるいはしようとしなかっただけかもしれないが)。
革命後、夫の姪であるデンマーク王妃アレクサンドリーネ(1879-1952)を通じて、ボリシェヴィキー政府から夫やペトロパーヴロフスカヤ要塞に投獄されているロマーノフ一族を «買い取ろう» とするが、果たせず。1919年、ゲオルギイ・ミハイロヴィチ大公がボリシェヴィキーに処刑され、マリーヤ・ゲオルギエヴナ大公妃は未亡人となる。
一説には帰国途上の船上で、ギリシャ海軍提督のイオアンニデスと出会ったと言われる。再婚後、ギリシャに帰国。