マリーヤ・アレクセーエヴナ
Мария Алексеевна
ツァレーヴナ царевна
生:1660.01.18/01.28−モスクワ
没:1723.03.09/03.20(享年63)−モスクワ
父:ツァーリ・アレクセイ・ミハイロヴィチ 1629-76
母:ツァリーツァ・マリーヤ・イリイーニチナ 1625-69 (イリヤー・ダニーロヴィチ・ミロスラーフスキイ)
結婚:なし
子:なし
ツァーリ・アレクセイ・ミハイロヴィチの第八子(六女)。
ツァーリ・フョードル3世・アレクセーエヴィチ、イヴァン5世・アレクセーエヴィチの同母姉で、皇帝ピョートル1世・アレクセーエヴィチの異母姉。
姉妹の多数と同じく政治には無関心で、少なくとも口を出さなかった。姉ソフィヤ・アレクセーエヴナの摂政時代にも特段マリーヤ・アレクセーエヴナのかかわりは無かったようだ(あるいは単にソフィヤ・アレクセーエヴナと仲が良くなかっただけかもしれないが)。
当時のロマーノフ家の女性たちは、テレムノーイ宮殿で生涯を送るのが一般的だった。外界の出来事に触れる機会がほとんどないため、概して保守的にならざるを得ない。
おそらくマリーヤ・アレクセーエヴナもそのような気質の女性だったのだろう。そしておそらくそのために、同じような気質の持ち主である、ピョートル1世の最初の妃エヴドキーヤ・ロプヒナーに近しくなったものと思われる。政治的な言動こそ知られていないが、エヴドキーヤ・ロプヒナーがピョートル1世から疎外されていることに同情を隠さなかった。
1698年にエヴドキーヤ・ロプヒナーが修道院に押し込められた後も連絡を取り続けた。
また、母を失くしたツァレーヴィチ・アレクセイ・ペトローヴィチとも緊密な関係を保った。ここでも保守的な気質がふたりを近づけたのかと思われる。
しかしそのために、アレクセイ・ペトローヴィチの裁判の時にはシュリッセリブルグ要塞に投獄されたりもした。その後サンクト・ペテルブルグに移され、監禁状態に置かれる。
死後はペトロパーヴロフスキイ大聖堂に埋葬された。