マリーヤ・アレクサンドロヴナ (マリー)
Maximiliane Wilhelmina Augusta Sophie Marie, Мария Александровна
ヘッセン大公女 Prinzessin von Hessen und bei Rhein
大公妃・ツェサレーヴナ великая княгиня, цесаревна (1841-55)
ロシア皇妃・ポーランド王妃・フィンランド大公妃 императрица Всероссийская, царица Польская, великая княгиня Финляндская (1855-)
生:1824.07.27/08.08−ダルムシュタット(ヘッセン、ドイツ)
没:1880.05.22/06.03(享年55)−サンクト・ペテルブルグ
父:ルートヴィヒ2世 1777-1848 ヘッセン&ライン大公(1830-48)
母:ヴィルヘルミーネ 1788-1836 (バーデン辺境伯カール・ルートヴィヒ)
結婚:1841−サンクト・ペテルブルグ
& 皇帝アレクサンドル2世・ニコラーエヴィチ 1818-81
子:
名 | 生没年 | 結婚 | 結婚相手 | 生没年 | その親・肩書き | 身分 | |
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アレクサンドル2世と | |||||||
1 | アレクサンドラ | 1842-49 | − | ||||
2 | ニコライ | 1843-65 | − | ||||
3 | アレクサンドル(皇帝3世) | 1845-94 | 1866 | マリーヤ・フョードロヴナ | 1847-1928 | デンマーク王クリスティアン9世 | 君主 |
4 | ヴラディーミル | 1847-1909 | 1874 | マリーヤ・パーヴロヴナ | 1854-1923 | メクレンブルク=シュヴェリーン大公フリードリヒ・フランツ2世 | ドイツ諸侯 |
5 | アレクセイ | 1850-1908 | − | ||||
6 | マリーヤ | 1853-1920 | 1874 | エディンバラ公アルフレッド | 1844-1900 | イギリス女王ヴィクトリア | 君主 |
7 | セルゲイ | 1857-1905 | 1884 | エリザヴェータ・フョードロヴナ | 1864-1918 | ヘッセン&ライン大公ルートヴィヒ4世 | ドイツ諸侯 |
8 | パーヴェル | 1860-1919 | 1889 | アレクサンドラ | 1870-91 | ギリシャ王ゲオルギオス1世 | 君主 |
1902 | オリガ | 1866-1929 | ヴァレリヤーン・グリゴーリエヴィチ・カルノーヴィチ | ロシア人 |
ドイツの領邦君主ルートヴィヒ2世の第七子(三女)。ルター派。
母ヴィルヘルミーネは皇妃エリザヴェータ・アレクセーエヴナの妹。
ルートヴィヒ2世とヴィルヘルミーネの子は、上からルートヴィヒ3世(1806-77)、男子(1807)、カール(1809-77)、エリーザベト(1821-26)、女子(1822)、アレクサンダー(1823-88)、そしてマリー(1824-80)。
1820年、ルートヴィヒ2世は侍従長アウグスト・フォン・スナルクラン・ド・グランシにハイリゲンベルクの土地を与えたが、ヴィルヘルミーネは以後ここに暮らした。つまり、エリーザベト以下の4子はスナルクラン・ド・グランシの子であると考えられる。ルートヴィヒ2世は自分の子として認知しているが、当時これを信じた者はほとんどいなかったようだ。
ちなみに、これもあってか、すぐ上の兄アレクサンダーはヘッセン方伯ではなくバッテンベルク侯を名乗った。バッテンベルク家、マウントバッテン家の祖となる。つまり、イギリス王太子チャールズの祖先である。
認知されはしたものの、マリーは兄アレクサンダーとともに、母の暮らすハイリゲンベルク(スナルクラン・ド・グランシの土地)で育てられた(上の兄たちはダルムシュタットの宮廷に暮らした)。
アレクサンドル・ニコラーエヴィチ大公と出会ったのは1838年。恋に堕ちたアレクサンドル・ニコラーエヴィチ大公は、母親の反対にもかかわらず、マリーの出生に関する噂を十分承知の上で結婚した。
マリーヤ・アレクサンドロヴナは女子のギムナジウムを開き、赤十字創設にも尽力した。
おそらく母親からの遺伝で肺が弱く、サンクト・ペテルブルグの気候がこれを悪化させたものと思われる。肺炎に苦しみ、しばしば西欧に静養に出た。
健康上の問題もあったが、マリーヤ・アレクサンドロヴナはもともとシャイで社交的でなかった。せめてダルムシュタットの父の宮廷で育てられていたら多少は違ったかもしれないが。それでも1855年まではまだ皇妃アレクサンドラ・フョードロヴナがいたから良かったようなものの、1855年に夫が皇帝となると、マリーヤ・アレクサンドロヴナが皇妃として宮廷行事の中心的役割を果たさなければならなくなった。その苦労、心労も重なったためだろう。1860年代に入るとマリーヤ・アレクサンドロヴナの体調は悪化。
ロマーノフ家初期のツァリーツァを除けば、夫である皇帝に先立った唯一の皇妃。
兄アレクサンダーはマリーヤ・アレクサンドロヴナのつてを頼ってロシア軍に勤務していたが、貴賎結婚のためロシアを去った(相手はマリーヤ・アレクサンドロヴナの侍女)。
のち、その次男アレクサンダーがロシアにやってきてロシア軍人となり、露土戦争(1877-78)にも従軍。1879年にはアレクサンドル2世に推されて新生ブルガリアの君主となる(1886年廃位)。
1860年、サンクト・ペテルブルグに新たに創設されたオペラ・バレエ劇場が、彼女にちなんで «マリインスキイ» と名付けられた(ソ連時代のキーロフ)。